田辺聖子 女の長風呂 I 目 次  女のムスビ目  |い《ヽ》 |ら《ヽ》 |う《ヽ》 女  ×××しよう!  愛のオシバイ  男 の 欲 望  女 の 性 欲  面食いの単純さ  性 の 河 原  強姦と女心  付 け 根 考  公衆ベッド  ポルノについて  乱交パーティの視線  淫  風  潜 在 願 望  四 十 八 手  子供より男  セーラー服の女学生  わが愛の中学生  男の長ドス  紫 の 上  オヤ&ムスコ  男は「六|せる《ヽヽ》」  処  女  女は「五|たい《ヽヽ》」  身内とエッチ  青 大 将  情を通じ……  初  潮  変  身  コレクターの栄光  拝観女の姿態  ワイセツの匂い  わが愛の不良たち  男のオナカの情感  夜 這 い  仙境の法悦  男は色情狂  往  生  痴  漢  女 の 出 撃  月のさわり  早  熟  混浴に於ける考察  男の品さだめ  きらいと好き  ファウンデーション  男の見当はずれ  パッ、サッ、スカッ  夜ごとの復縁  女のムスビ目  私の住んでいる場所(いま、こうやって書いているところ)は、神戸の下町である。  神戸ったって、ハイカラでモダンな所ばかりとはかぎらない。このへんみたいな、がらがらした下町もあるのである。  ウチの前をストンと南|行《さが》ると(神戸では浜へ向けて南へいくことをサガル、という)、かの有名なる福原遊廓のどまんなかの柳筋になる。故に、わが住む町は、夜中まで嫖客《ひようかく》の足音が絶えぬ、パトカーのサイレンが鳴る、H会や、Y組のチンピラがうらのアパートでケンカする、福原の三流バーのホステスが買物籠を下げて、うろうろしていて、長雨になると沖仲仕のおっさんがしかたなく朝から酒をくらって歌っている声がきこえる、そういうところで、角《かど》っこに清元温泉がある。大将が清元が好きなのか、はたまた、元来そういう名前なのか、ともかく、そういう風呂屋(銭湯)がある。  だいたい、この町は気風|濶達《かつたつ》と見えて、風呂屋へいくのに男は夏はステテコ一丁、冬はパジャマ、あるいはねまきにチャンチャンコ、というふうていであるのだ。かえりにねまきを着るなら、さもありなん、だが、行きにすでにねまきを着てゆくのだから、この町の住民がいかに物に捉われない生き方をしているか知れるというもの。  家の前、清元温泉を東へいくと、湊川《みなとがわ》神社になって、要するに、われわれは湊川神社の氏子というべきなのだ。誠忠無比の忠臣の余香を拝する地域に住んで、ねまきで風呂へいくというのは、申しわけないようであるが、楠公サンというのは、神戸市民にとっては及びもつかないこわい神さまではなく、たいへん親しみのある人なので、住民もその親しさに狎《な》れて、楠公サンの思惑を意に介《かい》してる風はない。湊川(つまりこの町内のごくちかく)、は楠公サンが戦死した場所なのである。  ところで、風呂の中で大ぜいの女が入って何の話をしているのかと男は思うだろうが、男の思うほどの話は出ないものである。たとえば清元温泉でなくて、ほんとの湯治場の温泉へいくとする、かなりリラックスしていても、男ほどのことはない。男はうちつれて温泉なんかへいくとする、そしてまた、うちつれて風呂なんかへ入ると、もう、何をしてるかわかりはしない。何の話をしてるか、神のみぞ知る、である。リッパな紳士(彼はすぐれた音楽家でした)が風呂の中で同行の紳士連と何かのコンクールをして(何のか知りません)熱中のあまり、湯舟ヘボチャンと落ちた、なんてことを話すのをきくと、うらやましいくらいのもの。  女ははだかになっても、そんなあけすけなことはなく、気どっている。同性同士でも気どっている。いや、同性だから、よけい気どってるのかしらん。ちょこちょこッとうまくかくして洗い、相手より一秒でも早く湯舟に飛びこもうとしたりする。相手も、湯舟からしげしげ観察されたりしてはかなわないので、負けずに飛びこむ。そうして上るときは申し合わせたようにサッと同時に上ってあわてふためいて拭き廻して、噴き出る汗をぬぐいもあえず、スリップに頭をつっこんだりしている。べつに見せたってちびるもんでもないのに、同性に見せ惜しむ。その割に電光石火の一ベつを投げあって、(だいぶん下腹が出てるわ)とか、(あんがい、しなびてるじゃない)などと、ぬからず要所要所を看破してるらしい。  そういう、かくし廻ってる所から、たいした話はでるはずないが、どうも、それは、女の習性みたいなもので、私は女がかくしたりウソをついたりの元兇は、月々のちょっとした例のアレから来てると思う。 「いいですか、決して人に気取らせてはいけませんよ、何でもないように身じまいよくして、お便所を出るときも汚していないかよくよく気をつけて、スカートにも汚れはないか気をくばって」  と、母親や女教師から何くわぬ顔をしつけられる。女は図太く、モノをかくすようにかくすようにしつけられて、神秘めかしく大きくなってゆく。同輩うちつれて風呂へはいり、何かのコンクールをして熱中して湯舟へ落ちるなんて、朗々たることができようはずはないのである。何となくウサンくさい、ウソつきの、かくしたがりに育っちまうのである。  だから、初夜体験なんかでも、ほんとのことを話してる人、あるのかなあ、と私は疑問に思う。男の話をきいていると、彼らはそれまでの人生で、たいてい一つ二つのまがり角というか、ムスビ目のコブをもっている。戦中派だと、たとえば、敗戦のショックとか、学生運動の挫折、なんてことをいう。  しかし女には、そんなものがない。  男はムスビ目があるかんじで、女はそれがなく、ツルンとしている。  そこがふしぎ。中には、戦中派の女や戦後派の女、たまに男と同じことをいいたてる人もあるが、少なくとも見たかんじは男ほどではないみたい。女の、そういうムスビ目は何だろう? と小松左京氏にいったら、彼はさも嬉しそうに、 「そら初夜体験やんか」  と答えていた。しかし、思うに、女にとっては、それもムスビ目になり得ないことが多いんじゃないか。小松ちゃんにかぎらず男はみな、そういいたがるようだけど、どうかなあ。  それより、女は、実際の体験よりも、そういう知識を仕入れたときのほうが、ショックが大きくて、ムスビ目になっているのかも知れない。どんなにおぼこなお嬢さんでも、もう私たちの時代から、知識の方が実際体験より先行していた。そういうことは、どの女のひとだってあると思う。本で読んだり、友人がしゃべったり、ということがあるでしょ。  私のときは旧制高等女学校三年生でした。仲のいい、ちょっとヌケた親友が、近所のおばさんからその知識を仕入れてきた。みんな一しょの所ではいいたくない、と彼女がいうので、四、五人でじゃんけんして、順番をきめて一人ずつ、耳打ちしてもらった。  そのときの私の感想をいうと、長年の疑問、一時に氷解、というていであった。それでもまだ六十三パーセントぐらいはウソだと思っていた。なぜなら、戦時下の女学生として、私は尊崇のまとであった忠臣・楠木正成までそんなことをしたとは絶対に信じられなかったからである。 「そら、マサシゲさんかてしたはるわ。マサツラさんがいてはるもん」  と友人は断定した。  いま正成さんの氏子になって私、感無量である。  |い《ヽ》 |ら《ヽ》 |う《ヽ》 女  私は、女は浴場の中においても、同性の目にさえ裸身を触れさせぬようにコソコソとかくし廻っていると書いたが、もちろんそのかぎりでない、威風堂々という、すごいのもいるわけである。  彼女らが礼儀にはずれているとはいいがたい。  ちゃんと手拭いなりバスタオルなりを、前にあてがっている。  それからお湯にはいるときもちゃんと掛り湯をしてはいる。  湯をかぶるときはしゃがんでかぶる。  石鹸の泡やとばっちりを周りにかけたりしない。  あらゆる点において、日本女性のつつしみを守っている婦人たちである。  どこが威風堂々かというと、女性の部分をじつにていねいに洗う。たいがい、これ、三十代四十代の婦人である。  十代二十代の女性はそそくさと洗う。年代は上でも、未経験の婦人もまた、いいかげんに、洗う。ハズカシソウに洗う。  五十代六十代の婦人は、これはもう、適当に、という投げやりさで、枯淡の境地に達した洗い方をする。  私は、女性の通例により、自身は湯舟に身を沈めつつ、じーっと、同性の行動を観察することにした。  つまり、要約すると、現役《ヽヽ》の婦人がいちばんていねいに洗うみたい。候補生、新兵といった若々しい未経験の連中は、勝手がわからないので、あんまり立ち入ったことはできません、というふうな洗い方に見える。何かさわるのも怖いみたいである。  退役将校在郷軍人といったおもむきの老婦人は、どうちゅうこと、ない、という風情に洗う。現役の婦人が威風堂々として見える所以《ゆえん》である。  その現役世代の中でも、子持ちと、そうでないのとでは、前者のほうがより威風堂々と洗うみたい。  その洗い方は片方で湯桶の湯をそそぎつつ片方の手で丹念に触る。こういうときの大阪弁にはじつにぴったりしたことばがあって、「ていねいに|いろ《ヽヽ》てはる」というのである。「いらう」あるいは「いろう」には、触れる、という意味と、弄《もてあそ》ぶ、という意味があるのである。ちょっといやらしい語感である。  おもむろに「いろうて」心ゆくまで湯をかけて、のッしのッしと歩き廻る、そういう彼女たちを見ていると、同性ながら畏怖《いふ》の念に打たれざるをえない。  いつか、ある雑誌の投稿句にこんなのを見たことがある。  「幾たりも子を生み夜の海泳ぐ」  まことにものすさまじいような人生である。子供を生む、ということは女の性の究極であるから、子供を生むか生まないかで、女のひとは、あの一線を飛びこえるように思う。怖いものなしの境地になり、丹念に|いらう《ヽヽヽ》ことができるのである。そのときの顔つきは、無念無想で、宮本武蔵が、巌流島へ向うときのような感じである。  ……私は、自分がいかに中途はんぱな、至らない女であるかを、思い知らされずにはいられない。私は結婚しているといっても子供も生まず、家庭もちといっても、女房の仕事もろくにせず、さればといって、たいした才能があるわけでなく、要するにちゃらんぽらんで宙ぶらりんで、いいかげんな存在で、生きててもハタ迷惑なだけの女ではあるまいかと、みずから省みて愧《は》ずるところ多大である。  私としては、紫式部の再来みたいな才女になるより、スカスカと幾たりもの子を生み、夜の海をはだかで泳ぎ、風呂では丹念に湯をかけて十分くらいも「いらう」ことのできるような、威風あたりを払う女になりたいのである。なりたいのであるが、人には向き向きというものがあるから仕方がない。  ところで、男から見て肉感的な女、というのがある。これ、女にはよくわからぬ。私は身近にいていつもよく話相手となる男の一人にたずねる。彼をとりあえず、「カモカのおっちゃん」と名づける。なぜなら、彼、とても怖い顔をしたヒゲ面の男であって、私はちっちゃいとき、悪戯《いたずら》をすると「カモカのおっちゃんがくるデ」と脅された。カモカは大阪弁でいうと「咬《か》もうか」のことである。大口あいて、「カモカー」と子供を襲う、人外のバケモノである。彼はそのイメージにソックリである。 「肉感的な女の人て、たとえばどういうのん?」私は唐突にきく。 「そうですな、倍賞美津子ていますね、あんなんです」彼は考え考え、いう。 「ふーん、私ら、姉さんの千恵子の方が好きやけど」千恵子さんは清純スターである。 「いや、断然、美津子です。それから、西田佐知子いうのん、居ますね、あれです」 「ふーん、そうかなあ」  よく納得できぬ。カモカのおっちゃんは四十七歳で、住民登録にちゃんと書きこめる職業をもっている平均的日本男性の一人である。だから彼の意見も平均的ならん。  西田佐知子や倍賞美津子のほかに、いろいろ彼は例をあげた。しかしどれといって、共通点あるように思えぬ。私は人形のように可愛いスターやタレントが好きであるが、男はそれをしも肉感的とは思わぬらしい。ついに私は一つの共通点を見いだした。カモカのおっちゃんの上げる例を見渡すと、何かしら、淫靡《いんび》な、(かといって不健康というのではない)色合いがある。  何かしら、神秘めかしいくせに、そのくせ威風あたりを払うところがある。  つまり、「いらう」女なのである。(といって、倍賞さんや西田さんがそうだというのでなくて、一つのイメージの例であるからご海容いただきたい)  風呂にはいってくる、そのさまはいかにもしとやかである。しゃがむ、片っ方でお湯をかけながら片っ方で丹念に洗う、千軍万馬の古つわもののごとく、一騎当千のサムライのごとく、半眼にとじ、勝手知ったるごとく、よく使いこんで磨きのかかった手馴れの道具のごとく、愛着こめて洗ってる、その姿には犯しがたい貫禄があるのである。|いらう《ヽヽヽ》女が全部肉感的なのではないが、肉感的な女は、たいがい、そんな感じがある。現役のバリバリという感じがある。  ×××しよう!  ひきつづき、平均的男性、カモカのおっちゃんに登場してもらう。 「花嫁衣裳、いうのがありますねえ」  あります、あります。 「何で女は、あんなものに赤目吊って騒ぐのんか、わかりまへんな」  しかし男が見ても、やはりきれいでしょう? 美しく装われた花嫁は、花婿が見てもやはり快いのではないんですかねえ。 「なに男が衣裳なんか、見まッかいな、中身のことしか考えとらへん、×××あるのみですよ!」  ミもフタもない話になってきた。  ところで、この×××というところは、××××になる地方もあるだろうし、××の地方もあるであろう。それは地方地方によって適当に字数を増減してあてはめられたい。関西では×××の三字である。女性の体の一部分の呼称は地方により異同があって、それらにおける研究は夙《つと》に男性の好学の士により進められている。  ところで×××なんというコトバは、私は小学生以来、口に出したことはない。とすると、もう三十年、私の舌は、その語を発音したことはないようである。  私は近時、たまに泥酔・乱酔いたしますが、そういう折でもタブーが働いているせいか、それは口にせんようであります。尤も、自分ではわからないので周囲の証言に頼っているから、とことん、うけ合えないけれど、まあそッちの方はいわないもよう。しかし男の人はムヤミと高らかに叫びはる。野坂昭如センセイなんか、すごいみたい。  何故、高らかに叫ぶかというと、たぶん男はその禁制の語を口にのせることによって、周囲に衝撃を与え、オール一座の関心を自分にひきつけんがため、はたまた、蒙昧《もうまい》なる社会の偽善的、似而非《えせ》道徳を打倒しようという革命的情熱に燃えて、「×××! ×××!」と連発するのではあるまいか。  その心意気は勇壮であるが、×××は、このごろ、あんまりショッキングなタブーでなくなりつつある。それは驚くほどのスピードである。  先日、若い娘さんが、私の目の前で、「×××……」と放言したときは私はビックリした。尤も彼女は、ちょっと新しがりの子であるが。  また若い女性の文章でもそのコトバをハッキリ漢字に嵌《は》めてかいていた。これにもビックリする。彼女らはそうすることによって、性のタブーを破壊し、男と同等の地位に立つと信じているのであるらしい。  いまはまだ、若い女性が「×××したいときは……」などというと、痛々しくきこえて、背伸びしている感じであるが、やがてはそれに狎《な》れ、抵抗を感じなくなるかもしれない。  また、それが英語にとって代って表現されるようになれば、タブー意識に触れないだけに、ますます生活の中へ浸透する語になるであろう。  お見合いの席で振袖のお嬢さんが口にのせても、いっこう平気な語感に堕《お》ちてゆくかもしれぬ。  それはしかし、人間にとって、幸福ではない。  禁忌と含羞《がんしゆう》の抵抗感なしにいえるコトバばかりみちていては、人生、おもしろくありませぬ。私は、頑として、その言語を日常語の中へひとしなみにおとすのを拒否する。「×××!」の発音を安売りしたくないのです。  私にかぎらず、四十代、三十代の女、ふつうのミドルクラスの女たちは、おそらく、一生「×××」という語を発音せずに終るであろう。  そうして私自身の好みから申せば、口にのせるのをはばかられる、あらゆるこの世のタブーを一語に凝縮したような、淫靡とワイセツと悪徳の権化のようなコトバを、舌の奥でキャラメルみたいにころがして、決して出さずにたのしんでいるのも好きである。  そうして一生に一度、ほんとにそれに価《あたい》するような、ステキな男に出あったときに、思いきり声はりあげ、遠からんものは音にもきけ、近くば寄って目にも見よ、 「×××しよう! しよう!」  とどなってやったら、どんなにスカーッとして、積年のモヤモヤが一瞬に吹っとぶであろうか。 (断っておくが、そういう男は亭主なんかにしないノダ)今に見ておれ、おどろくな。 「小学生のときは今よりもっと平気で、×××、×××、と濫発《らんぱつ》していましたな」  とカモカのおっちゃんはいう。 「手ェひろげて、×××しよう、いうて女の子追いかけるんですワ。女の子も×××しよう、いうて追いかけてきたりする」  いやらしい子供やね。いくつぐらいの時です。 「ナニ、三つ四つの頃のことですがな」  三つ四つの頃のことをおぼえているもんでしょうかねえ。  私が、いたく心に刻まれている×××のおもいでは、小学生のころ、たぶん、三年か四年の低学年であったか、もとより戦時中でありますな。  年のわかる人はわかるであろうが、南京(ナンキン、とよむ)陥落の提燈《ちようちん》行列よりもっとあとだったと思う。私の通っている大阪市上福島尋常高等小学校のご門前の電柱に、(電信棒《でんしんぼう》はみんな、木であった)ある朝、じつに彫り深く、カッキリと刻まれていた文句がある。(伏字の所も明瞭に片カナで書いてある)  「×××スルノモ国のタメ」  きャーッ。ワーッ。  無邪気なもんですね、子供はみんなそれを見て笑いながら学校へはいってゆく。あとで音楽室の窓から見おろしてると、小使いさんがそれに墨を塗って堙滅《いんめつ》をはかっていた。  私、今になって考えると、その犯人、えらい奴ちゃと思うのです。  当時は、戦争たけなわで、人口増加が奨励されていて、いわゆる「生めよ殖やせよ」が国策であった。勿体なくもお上《かみ》が、民草に性交妊娠出産をおすすめになっていたのであります。  犯人はそれを笑っておる。たぐいなく、するどい落首といわねばならない。もし×××の使いかたに上中下とあるなら、これなど、上の上であろう。  愛のオシバイ  ところで花嫁衣裳の話はまだ終っていないのである。×××がでてきたので、話が横へそれてしまった。  女は何故に花嫁衣裳をまといたがるか。  それは、女がオシバイが好きだからである、小っちゃな女の子を身辺にもっていられる方はきっと、ご覧になったことがあると思う、女の子は三つ四つぐらいからママの着物をひきずって頭に何ンかくっつけて「おヨメさん」になったり「おひめさま」になったりするのが大好きである。女は生まれおちるときから死ぬまで、オシバイを好む動物である。  雰囲気第一、という人種である。  舞台装置をちゃんとして、その中でスターの如くふるまいたいのが女である。  芝居っけがなくちゃ、生きていられない。  ムードに酔うのが大好き。  結婚式は一生一度の大芝居である。高島田に振袖、はたまたまっ白いフワフワの白レースのウェディングドレス、うしろには金屏風、花と酒とご馳走、ミンナコッチ見テハル、ワー、この感激。女はもう、死んでもいい、なんて心中、思ってる。最高の瞬間。  この瞬間、女のあたまには、結婚式にうちつづく晴れの新婚旅行、その夢のような数日、そのことしか、あたまにない。というよりそこでプツンと意識はたちきられている。豪華な花嫁衣裳と、新調の旅行着と花束、そんなものでもうあたまはいっぱい。  しかし花婿は男である。男は実質的でかつ現実的である。彼はオシバイの本質を見ぬいてるのである。これは、今晩寝るための披露だなんて思うであろう。だから男はモーニングを着て、はずかしそうにてれくさそうに、間がわるそうに笑ったり面映ゆそうにしているであろう。列席者がひやかしはせぬかと、男は顔が赤くなるであろう。彼は結婚式というものは寝るための手続きだと思っているから、こんな大がかりな猿芝居を見せることに抵抗をかんじ、冷や汗をかくであろう。  旅行に出発してホテルヘ着く。オシバイの第二幕。ここはぜひ、クナシリが見えたり、山に霧が流れたり、海に夕日が落ちたり、という背景がなくてはかなわぬ。  まちがっても廃品回収業の作業場が見えたり、漫才小屋の楽屋口ヘ出前のドンブリがくるのが見えたりしてはいけない。オシバイというものは美しくなくちゃ。  美しい背景の中で、最初の愛の夜はもたれなければいけない。  女はみんな、そう思ってる。  しかし世の男のことごとくがオナシスではないから、いつまでもぜいたくな背景はつくることができない。生涯に数日のオナシスごっこである。  けれども女はべつにホテルや飛行機の中だけがロマンチックとはかぎらぬと思う、せまいながらも楽しいわが家、団地の2DKだって愛のオシバイの道具立てはそろうのだ。ほんのちょっぴり、男がロマンチックなお芝居っけを出し、口うらを合せて愛のむつごとをささやいてほしいと思う。  しかるに男はどうか。ねぐらのアパートヘかえると早いとこ自分のペースをとり戻して地金をあらわす。そうして、いつまでも台所を片づけてる女に業を煮やし、 「オイ、何しとんねん、ええかげんにして、早よおいでェな」  なんて恥も外聞もなく、むくつけき声で寝床からよび立てたりして、女から見ると幻滅もいいトコ。  女はたとえアパートのひと間であろうが、やっぱり芝居っけがある風情にして、そのかみのおひめさまごっこみたいに、アラビヤンナイトに出てくるような透ける寝まきを着たいときもあろうし、電燈の笠の色まで配慮したいだろうし、床《とこ》まき香水で室内をくゆらせようとも思うであろう。  しかるに男ときたら、たいていの男は、 「あほ、何しとんねん、ゴチャゴチャ、|けったい《ヽヽヽヽ》なことするな」  と叫ぶであろう。 「だって、やっぱりムードが……」  と女はさからうであろう。しかるに男は、 「ムードがどや、ちゅうねん、こっちゃ、忙《せ》いとんねん、ムードもハチノアタマもあるか!」  などとわめくであろう。ほんと、男ってどうしようもないね。人間とも思えない。  こういう手合いはまた、ソノ気になると、女房がトイレ掃除していようと毛糸パッチを編んでいようと、せまい2DKの台所で味噌汁つくっていようと、おかまいなく襲いたがるであろう。しかし女としては、いかに|もよおせば《ヽヽヽヽヽ》、とて、台所の板の間に背中を押ッつけられたりしたら、怒り心頭に発する思いであろう。いろいろと都合もあるし、心の準備もあろうというもの、あまりにも原始的、野蛮的ではないか、まだしも類人猿のほうがつつしみがあるのではなかろうかと、女は男をあじけなくも思い、軽蔑もするであろう。お芝居っけのない、ということは、もうどうしようもない、不粋で、殺風景で、心あさいことであります。少なくとも教養ある紳士とは申せない。  さればといって、お芝居っけばっかりで、実質のともなわないヘナチョコ男は、これまた、女には怒りと軽蔑のまと。  女は思う、例のことはお芝居っけで包んでこそ、たのしくも美しくなるのであって、どっちが欠けてもダメである。しかし男はそこんとこ、ちーともわかってくれない。  つまり、お芝居っけというものは、エゴイストではもてない。心が浅いともてない。せっかちではもてない。ゆとりがないともてない。日本男児に欠けたるものばかりだよ。  目を血走らせて、たえずカッカしてるような男では、あかんのであります。  世の日本男児は、たいがいエゴイストである。お芝居っけはてんでなし、はじめにないものが、あとであるわけがなく、コトがすむと、てのひら返したごとく、 「オイ、窮屈だ、あっちへいけ」  ポーンと女房の体をほうり出して、自分はもう高いびき。人間は何のために結婚するのかと、女はこういうとき、哲学を強いられるであろう。団地の窓なんか見てると深夜、女がひとりカーテン絞って淋しそうにつまらなさそうに考え深そうに外をのぞいている。  これは、ほうり出された奥さんである。  ——男って、ほんと、ヘンな動物!  男 の 欲 望  イヤー、このあいだ、私はひどい目にあっちゃった。  私、毎日放送へナンかの仕事でいった。何のときだったか忘れた。この間といっても、ちょっと前、半年ぐらい昔である。  毎日放送は千里の万博会場横にあって、名神ハイウエイを使っても私のウチから(というのは神戸の下町荒田町から、)小一時間はたっぷりかかる。  かえりに車をよんでもらった。私は一人で乗った。  ちょっとおトイレにいこうかと思ったが、気の張る人が見送りに出ていられたりして恥ずかしくていい出せなかった。そうしてそのままタクシーに乗った。それがまちがいのもとである。  だんだん、私は辛抱たまらん状態になってきたのである。  名神ハイウエイで、「P」へ車をとめてもらおうかと思ったが、私は運転手サンに気がねしてはずかしくてどうしてもいい出せなかった。そのうち、車はスコスコと快調に走りつづけて阪神高速の西宮へかかる。阪神高速へ入ってはお手あげである。もうパーキングする施設はない。  私は腰を浮かしてなるったけ、車体の動揺が体にひびかないように工夫した。顔が青くなってきそうな気がする。しまいに胸がいっぱいになって来て、涙が出てくる。どうしてこんな馬鹿に生まれたのだろうとかなしくなる。毎日放送を出がけに「ちょっと」といえばすむことなのに。モウダメダ! と何度も思った。目がかすんであたまはクラクラする。ここでひと思いにしたろかしらん。  車内が大洪水になったとて、弁償すればすむであろう。私の腎臓が破裂することを思えば、金で片付けばやさしいことではないか。——しかし、私がタクシー内を洪水にしたということはたちまち、毎日放送の悪友どもに知れわたるであろう。タクシー会社はたぶん、そんな悪質な客を乗せたというので、毎日放送にまで慰藉料を請求するだろうからである。——私は、窓から放出しようかと悲壮なことも考えた。しかし、私は不幸にも、それに適した体の構造をもっていないことに気付いた。  今は手の打ちようがない。残る方法はただ一つ、私の健康を犠牲にしても、私の名誉とプライドを守ることである。私は把手をにぎったり、シートのレザーをつねったりして、必死にがまんする。その間、運転手サンはいつか、高名な野球選手を乗せた話を気楽そうにしていた。その選手はとてもいい人で、タイヤのとり替えを快く手伝ってくれたそうだ。それをきくにつけても、私は決して粗相があってはならぬと、かたく心にきめた。ヒャー、この間のせたオバハンは、けったいな奴でしたワ、などと、運転手サンは次の客にしゃべりはせぬかと懸念されたからである。  車の中で、洩らしよりましてん、などといわれては、日本文芸家協会全会員の恥のみならず、オール日本の女性の恥である。  運転手サンがおもしろい話をしても、私は笑えない。笑うと堰《せき》が切れそうな気がする。一たん堰が切れたら、もう、あとは知らん。どないなるか、わからへん。  私は無念無想、厳粛荘重な顔でいる。そうしてお尻を浮かして両手で支え、ガンガンひびくあたまと、刻一刻、ハチきれそうになってくる何か(それは何か、としかいいようのないモノすごいエネルギーである。最初はごくかすかな感じから、ついには大爆発を予知させる、あるいは太鼓を乱打するごとき、自然のよび声である)に必死に堪えていた。  その日にかぎって、また、長いのだ、道程が。  京橋で阪神高速を下りたら、ひどい交通渋滞、全神戸の車がこぞって、京橋近辺へあつまったとしか思われない。前後左右をとりかこんだ車は、ことさら私の苦境を知って意地わるをしているとしか思えない。もうどうなったって知ったこっちゃない、私が洪水を起したとて、この交通渋滞を|よう《ヽヽ》捌《さば》|かん《ヽヽ》生田警察署長ならびに神戸市長がわるいのだ、と、決心したとたん、車がうごき出した。もう少し辛抱しよう、刻一刻となつかしいわが家のトイレは近くなるではないか。また、次の信号で渋滞。いまはこれまで。  侍が刀の鯉口切るというのはこうもあろうかと決心したとたん、またスタコラと車は走り出す。また辛抱する、ついに家について、そのあとは諸人のつぶさに身に沁むことであるから略す。  はればれした顔で、あらためて、ただいまァ……と部屋へ入っていったら、家人はことごとくおどろいていた。泥棒にしてはへんな奴だと思っていたそうだ。  後日、私はこのことを、友人のカモカのおっちゃんにいってみた。  カモカのおっちゃんは、しばし半眼にとじて酒を飲んでいたが、やおら盃を置き、 「その、堰《せき》が切れたときは、さぞ、うれしかったやろうねえ」 「堰が切れた、というのは、その、サーッと」 「さよう、滝つ瀬のとき」 「それは、もう」 「スッとしたやろうねえ」 「それは、もう」 「あとは光風霽月《こうふうせいげつ》……」 「それは、もう」 「心気晴朗、真如の月を仰ぐような、悟りきった、おだやかな、ハレバレした心地……」 「それは、もう」 「つまり、それですな」 「何が、ですか」 「男が、すんだあとです」  私は男のひと自体、わからない。まして男の性については、全くわからない。そういわれても、そうかなあ、とおぼつかなく類推するだけである。 「男の欲望というのは、まァそんなもんに似てるのんとちゃいまっか。その気になると目がくらんであたまカッカして、ほかのこと考えてられへん、ワーっというエネルギイですな。発散したあと、スカッと道心をとり戻します。ちょっとはわかりましたやろ」  わかったような、わからぬようなタトエである。  女 の 性 欲  男の性を研究したからには、女の性について触れなければ片手おちであろう。 「女に性欲があるかないか?」  これは男性の一大疑問であるらしい。  わが親友、カモカのおっちゃんは平素、 「女には欲望なんて、ないのんとちゃいまッか?」  といっている。それでなければ、或いはオール女性、糖尿病ではないかという。  何いうとんねん。  女にもあるのである。  ただし、女の性欲は全人生に汎渉《はんしよう》していて、男性のように狭く深く凝固した性ではない。  われわれ女が、男性作家の小説を読んでいて、時折、不信感をもつのは、女性の欲望を男性のソレと同列に論じておられる点である。「今昔物語」に奇妙な話がのっている。ある男が旅の道中にわかに淫心きざし、あたりを見廻したが畠のまん中でどうしようもなく、彼はせっぱつまって、カブラをひっこぬき、刀でえぐりとって穴をあけてすませたというのである。そういう、「辛抱たまらん」というところが女にはないように思う。女が男を強姦したなんてことがないのは、あながち体力や体の構造だけのせいではないのである。  それは能動的な淫乱女というものも万人に一人二人はいるであろうが、男性作家がよく書かれるような、未亡人やハイミスがどうして処理しているか、などという考えはバカバカしいかぎりである。畠のカブラをひっこぬいて、穴あけて用を弁ずるような、待ったなしの男の欲望では、「どうやって処理するか」が興味のまとにもなろうけれど、女はかならずしもそこへ落ちてゆかない。滝口は一つでなく、ひろく全人生に万遍なく、だから女の欲望は直接行為よりも、それをひきおこす環境、状態の充足が目標になるのである。  プロスティテュートはともかくとして、ごく普通一般の女たちは、やはり全人生的性生活をしたいと願うのである。つまり、恋愛、結婚、妊娠、出産、育児、すべてを志向する性である。女の性は究極的に、磁石の針が北を指すように、ひたすら子を産む、ということをめざしているかに思われる。そのための巣造りの本能として雄を求めるし、餌を運んでもらう必要上、雄をずっと必要とする。蒸発なんてされちゃ、巣は干上ってしまうから、クサリをつけて縛っといたりする。  女の性も、時としてあたかも、「辛抱たまらん」ように見えることはあるかもしれない。しかしそれは必ず、心理的に充溢《じゆういつ》されることを求める深層意識があると思う。どんなゆきずりのハプニングな浮気だって、性的充足だけで成立するとは思われない。  それからして、女はやはり結婚が安心立命の基盤となるのであろう、女という女、「結婚して下さい」という男のプロポーズで、たいがいホッとして、 (一丁あがりィ!)  と心に叫ぶであろう。それをきくために女の性はあるのであって、たんに男と性的結合する、小さい閉ざされた一点だけではないのである。女は、わが性をみたさんがため、奥さまと呼ばれたがる。奥さまとわが名呼ばれん初しぐれ、ただし、それは、(これで毎晩男と寝られる)というような、即物的なみみっちい根拠のせいではないのである。男は一瞬に排泄《はいせつ》したらそれで終る性だが、女はじんわり、ゆっくり、ずーっと、ながあく、そろーっと開花してゆく性であって、つまり、夫をもち、子供を産み、それを育て、世の中へおくり出す、それらすべてが、性なのである。  性は、女にあっては、ベッドの中だけじゃなくすべてに分散拡大し、とりとめもなく、放恣《ほうし》にひろがってるものである。  たとえ、未亡人やハイミス、つまり男と共ずみしていない成人の女たちが、性的飢餓感になやまされているとしても、それは「処理」してすむものではなく、もっと大きな心の欠乏感がいやされないと、埋まらないものだ。  女は生まれながらにして、大きな大きな心の空洞をもっていて、それが女を故しらぬ欲求不満にし、ゆううつにし、不平家にする。それは男と大っぴらに愛しあい、大っぴらに子供を産み(つまり、現代の社会倫理では結婚という形態を採ること)、大っぴらに育てることで、みたされる。——だからそういうものと切り離して、たんに性欲だけで畠のカブラにわが身を押しあてるなんてことはあり得ない。  あるかもしれないけど、ほんとに彼女が求めているのはそういうことではないと思う。  女の性は遠寺の鐘みたいなもので、陰にこもってものすごく、ボーン! という感じ、陰々滅々たる余韻《よいん》が、波のようにゆれうごいて、いつまでも消えない。  だから、男がちょいと女をひっかける、なんてことをするのは罪深いのである。  女は手すり足すりして寄ってくる。  さっき、充分、満足させたったやないか、何をまだ不足いうとんねん、男はみんなそういって女の欲深にあきれるが、女の性的充足は、たんに凸凹《でこぼこ》が合ったり離れたりするような単純幼稚、簡単浅薄なものではなく、その男をじわーっとクモの糸にからめて、子供をつくり巣をいとなむ、その長い期間の充足にあるのだ。  一ぺん二ヘんの離合集散で、すんじまう男の性とは根本的にちがう。わかったか。  性、それは男にあっては注射液ほどのわずかなエッセンス。  女にあっては、うがい薬ほどにもうすめてたっぷり使うもの。  あるいは男にとっては一滴の香水。  女にとってはシャワーでふんだんに浴びるオーデコロンみたいなもの。  ひろく深く、どこもかしこも性だらけ、それが女の性なのである。  だから、見栄っぱり、うそつき、ヤキモチその他、もろもろの女の悪徳も性の一部にすぎないのである。  それを矯《た》めてなおそうなんて、まあ、無理であろう。それは、女が女であることを止めよというようなものですからね。 「ほな、女に教育はいらんことですな、どうせなおらへんもんやったら」  とカモカのおっちゃんはいう。  うるさい。男は黙ってカブラでも抱いておれ。そして女にしばられておれ。  面食いの単純さ  男という男は別嬪《べつぴん》が好きである。美女に甘い。  美人でさえあれば、いかなバカでもアホでも気立てよく|あたま《ヽヽヽ》がいいように錯覚してしまう。美人だってバカもいるんだよ。  羊頭を懸げて狗肉《くにく》を売っても、美人でさえあれば許されるのか。  ひるがえって女の方はどうかというに、女は究極的には男の容貌など問題にしないのではないか。  しょせん男は気立てと甲斐性。  最後はそこへおちつく。  いや、もうギリギリ決着のところ、甲斐性よりも気立てさえよければ、女は生涯ついてゆく。  女は男の心意気に惚れることが多い。  その点、男はツラの皮さえよければ簡単に籠絡《ろうらく》されてしまう。じつに単純無思慮、粗野にして幼稚、この点に関するかぎり、大学教授も荷車曳きも変りばえせぬ。  いや、却って学者、作家、評論家、文化人といったインテリらしき人々の方が女のツラの皮の出来不出来に眩惑《げんわく》されやすく、熊公八公の方が、女の本質を美醜にかかわらず見ぬく洞察力に恵まれているのではあるまいか。彼ら底辺の庶民は生きることに真剣なだけに見栄を張ったり眩惑されたりする余裕がなく、男・女の仮面をぶっとばして、人間の本質みたいなものをさぐりあてる嗅覚があるからである。  私は昔からモテたためしがない。 「あ、それでそない、怒るんやな」とカモカのおっちゃんはいう。ブスの怨みはおそろしいと知るべきである。  顔の話は止めよう。われながら不愉快だ。万人に美人と思われなくてもよいではないか。ただ一人、亭主だけが美人と思ってくれれば……くれれば……くれれば……。 「くれんやろうなあ」とカモカのおっちゃんは私の顔を見て同情に堪えざる風。あかんか。  顔の話は措《お》く、本業の文章でいこう。  私は昔から、おそろしいオバハンだと思われている。カンカンガクガクと口角泡を飛ばして論断する女史に思われているらしい。  すべて、私の文章から読者はそう想像なさるのだ。  しかも鬼をもひしぐいかつい醜貌で、かくせどもおのずとあらわる好色の風、男を男ともおもわず、脚をあげて高々と組み、鼻の穴からタバコの煙、酒と漁色でつぶれた声で編集者の顔を見れば原稿料値上げを吹っかける、ものすごい女史に思われているらしい。  それが浅慮だというのだ。  私は実物は一メートル四十五、五十キロ、コロコロ太っていつもニコニコ、PTAにもいくし市場へ買物にもいく。男は亭主しか知らず、編集者の影は三尺下がって踏まぬよう心がけている、心やさしい、デキのいい女なのだ。  しかし私が書く文章は何故か知らねども、威勢よく弾《はず》んで、女史風になり、読者のヒンシュクを買うのだ。 「だからおせいさんの本は読まれへんねなあ」とカモカのおっちゃん、わが意を得たりと、「そこへくると、ホラ、岡部伊都子サンていますなァ。あの人の文章、僕、大ファンでね。しとやかにして可憐|掬《きく》すべく余韻嫋々《よいんじようじよう》、女らしさ、匂うばかり、涙もろいくせにするどいところがあり、魅せられる、というのは、こんなことかいな。写真で見ても、楚々《そそ》とした細腰の美女で……」  私、うらやましさで目の前がまっ暗になった。ワテも生きたやイツ子のように、可憐と涙のこの世界。  岡部サンはほんとは、すごく明朗で、愉快な人なんだよ。家の中ではいつもスラックスはいてる、いうとった。 「そんなはずない、いつテレビで見ても着物を優雅に着て……」  カモカのおっちゃんは頑として信じない。だけどね、イッちゃんの愛称で親しまれ、愛されてる彼女は、ほんと、すごく明るくて面白いの、嫋々なんて細腰は細腰だけど、もっとアッサリしてるのだ。いつか私とNHKに出演して、二人とも顔にドーラン塗られながら、岡部サンはその間も口をやすめず、 「そうよ、この髪型になれてるからねえ、耳が出るッていう人あるけど——え? そうそう、あたしの耳のことダンボなんていうのよ、ひどいねえ、ワハハハ」  なんて、化粧係さんに顔を八角にいじられながら、むりに私の方を向いて大口あけて笑う、とてもきどらない、私の好きなタイプなんだ。その彼女が文章を書くと、「女らしさ匂うばかり」人生は美しく、はかなく、かなしきものになってしまう。このふしぎ、これがわからんかなあ。  美しい文章を読むのはほとんど生理的快感にちかく、私とてイッちゃんの文章を好むこと、やわかカモカのおっちゃんにおとるべき。しかしながら、文は人なり、なんて古くさいことを考えていられると認識不足ですぞ。  美人は賢明なり。  美人は心やさし。  ナンデそう、きめてしまうのや。ブスにもええのが居りまっせ。ブスの美学だ。 「とくに岡部伊都子さんの、あの古寺めぐりの文章の品とおちつき。おせいさんなンかとえらいちがい」  まだカモカのおっちゃんはいっている。男という男、あげてイッちゃんの文章にぞっこんである。 「それに、彼女のイイナズケで沖縄で戦死した木村少尉のことを書いた文章——いいねえ……たまらんねえ。哀切きわまりない女の慟哭《どうこく》。僕は戦中派やからよけい、感動ソクソクたるものがありますな」  私も戦中派だからわかる。でもブス的文章にも女の物の哀れはあるのだ。うわべだけで判断しないで、ブスのいうこともきいてえ! 「イヤ、そら気の毒やけど格段の違い」  よろしい。そんなにいうなら男という男みんなイッちゃんの後援会に入ったらいいでしょ。私、後援会歌、作ったげる。 「イッちゃん音頭」はどうだ。 「木村少尉のおもかげ抱いて、今日もゆくゆく古寺めぐり、ソレヤットンヤットン、ヤットンナー」  てなもんだ、ヒヒヒヒ。  性 の 河 原  私の友人の男性(これは、カモカのおっちゃんではなく、三十八、九の中年前期の男である)は、あるとき、しみじみといっていた。 「僕ら、アレがでけへんようになったら死ぬワ。そうかて、生きててもセイないもんなァ……」  この場合の「僕ら」という、「ら」は、複数を指すのではなく、大阪弁の語法で、「僕などは」「僕なンかは」という意味である。したがって男性全般の意見というより、彼個人の感懐なのである。であるが、まあ、ここは一応、男性共通の心理とみて、差支えなかろう。  そこも、われわれ女には不可解なように思う。女はべつにアレができなくなったとて、死んだがマシとは思えない。前《ぜん》申すとおり、女の性の発現は各方面、多岐にわたっているから、まことに自由自在で、そッちがだめならこッちがあるさ、コドモのある女はコドモにかまけ、金の好きなのは金をため、宝石狂は宝石あつめ、世話好きは仲人マニアになる、というふうに、セックスは変幻自在となっていろんなヒマのつぶしかたを考えるであろう。  そこへくると男の性はどうも不自由であるらしい。あの道がダメとなると代替品がなくて、人生諸事、メタメタになるのではないかしらん。  しかし生者《しようじや》必衰のことわり、花のいのちは短かくて、いつまでも盛りの春というわけにはまいらん、みんな男という男、いつかは年とっちゃう。ご年輩となると、欲も色気も奮い立たぬであろう。  しかし、ご年輩の人がそれゆえに世をはかなんで自殺した、ということもきかない所をみると、自然の摂理で、年相応に欲も思想も枯れすがれ、べつに人生、あればっかりが能ではない、と悟られるからではあるまいか。そうして「でけへんようになったら死ぬ」という、若い盛りの哀れな性の亡者を見やって、へ、へへへと枯れすがれた笑いを洩らし、 「まァ若いときはそんなもんやが、これでまた、年とったら、とったで楽しみもありまんねん」  などと悠然としていられる、そういうのは自然で、たいへん見よいながめである。  しかし私のきらいなのは、まだそういう年頃でも世代でもないのに、 「イヤモウ、性の奥義はきわめつくした、何やっても何見ても、|おもろない《ヽヽヽヽヽ》」  などとブッてる奴である。気取って粋がって、 「あれもやった、これも見た、まァ何したところで同じこと、所詮女はどれも同じ、性というのは単純でつまらんもんで、べつに赤目吊ってやることとちがう」  なんぞという手合い、こういう男性は所詮、奥ゆきも知れてるよ。それより私は、「でけへんようになったら死ぬ」なんどという男の方が好きである。あるいは温泉場なんかで安物にひっかかったり、オトナのオモチャの店へ入って、へんなハンカチをこっそりたたんだり折ったりして悦に入ってる男たちの方が可愛らしくて自然である。  なべて、自然なるもの、みな、よろし。いわんや男においてをや。性、素直なるを以て男はよしとする。ブッてる奴は、私、大きらいである。  そうはいっても、人間は、時により、性を至上のものとも、むなしいものとも、両極端に思うことはある。それは仕方がない。それもまた、人間の自然である。カモカのおっちゃんも、そう思う、といっている。 「いちばん、両極端になるのは、れいの、前とあとですな」 「イヤ、ほんとです」と私も深く、うなずく所があった。 「まァ、その何です、やる前はカッカしてますわな、それこそ、あんたの友達やないがいまできなんだら、死んだ方がマシとのぼせる。中学生ぐらいの気持とかわらん」 「そうよ、そう」私も再び、うちうなずく。 「しかし、すんでしまうとコロッとかわります。中学生から瞬時に四十男の分別がよみがえる」 「全く」 「ああ、おとなげないことをした、と」 「ハア」 「ああ、あさましい、|らち《ヽヽ》もない、と」 「ホー」 「むなしいことだ、と」 「ご尤も」 「何のために息切らしてこんなん、せんならんねん、と」 「なるほど」 「つくづく、人間は空虚、この世は無、生きることは徒労だと思いますな」 「でしょうね」 「女はそんなん、思いまへんか」 「思います、思います」 「思うても相手にむきつけにいうわけにいかん」 「イヤー、ご同様」 「やっぱり、たのしそうな、いとしそうな顔して見せんならん、浮世の義理のつらいトコ」 「全く、一緒」 「ほんまかいな。女かてそう思うんでっか?」 「あッたりまえでしょ、バカ。男が汗かいてやってんのに、すぐヒヤカすようなこといえますか。イヤ、ご苦労なこっちゃ、思《おも》てても、笑うわけにいかへん、やっぱりやさしいコトバの一つもお愛想にいわんと、人間は気のもんですから、白けっちゃう」 「そうかァ。女も、そうかァ」  と、カモカのおっちゃんはいささか、深刻なおももち。 「すると、男も女も、両方、お愛想に、エエ顔し合《お》うとるわけですな」 「そういうわけ」 「お互いに浮世の義理は……」  と、カブキならここで、チョン、と柝《き》が入るところ、 「辛いわねえ」  と二人で声を合せていい、ホーとため息をつきあったが、双方、そういう口の下からお互い、それぞれの配偶者あいてに、その場になったらいそしむことであろう。積んではくずす、性の河原の業《ごう》である。  強姦と女心 「エー、与謝野晶子のうたに……」  とカモカのおっちゃんがとつぜんいった。 「強姦の歌がありますな」 「ヘッ! ホーント。寡聞《かぶん》にして存じませんでした」 「困りますなあ。あンた、もう五、六年前から与謝野晶子の小説書く、書く、いうて宣伝し廻っとるくせに、知らんのですか」 「いや、それは何です、たいがいの歌は知ってるが、中にはソノ、知らんのもあるかもしれないかもしれない」 「ききなさい」  とカモカのおっちゃんは低唱微吟した。 「——さかしまに山より水のあふれこし おどろきをして われはいだかる」 「阿呆!」 「強姦のうたでしょう」 「心やましい人がよむとそうも思えるでしょうが、これはちがうと思うな。夫以外の男に意外な求愛をされた感じです。カモカのおっちゃんはどうしてそう、人生を色キチガイみたいに見るのだ。反省せよ」 「色のほかに、人生なにがおますねん——所詮この世は色、色、色。ところで、女はなぜ、強姦されるのが好きなんでっしゃろ?」  私はすこし考えていった。 「私はきらいです」 「ウソつけ、女はみんなマゾ的傾向があるから、オール大好きなはずです。その証拠に小説にはよく、やっつけられる場面がでてくる。アレーと絹を裂く女の悲鳴、たえだえの女のすすり泣き、女という女、小説を読むときは所詮、立川文庫を|愛好する《ヽヽヽヽ》のです。雲助や性悪《しようわる》浪人に女が手籠め——なつかしいコトバですな——に会《お》うてるとこ、ばっかり読みよる」  それはきらいでない女が多いであろうが、女が強姦が好きなんて、大ざっぱにきめつけられちゃかなわない。  強姦ったって、いろんなニュアンスがある。箱根山中で大の男四、五人に手とり足とりされたり、常習者にうしろからとび掛られて首をしめられてのあげくだと、これはもう、半分殺人で、強姦というより、半殺《はんさつ》というべきである。 「イヤ、その半殺が女は好きなんとちゃいますか」  とカモカのおっちゃんはいう。いや、何で半殺がいいことがあろうか。私の思うに、性にはある一点でぐらりと傾いてしまうデリケートな一面があり、ある一点をこすと、別の次元になってしまう。性的犯罪は女にあっては、被害者と加害者というより、共犯と主犯の関係であることが多いが、半殺のケースでは、あきらかに被害者以外のなんでもない。性が犯罪にからむとき、被害者が出れば、それはもう非人間的な兇行となってしまう。  女が、みずからを被害者と感じた場合、そこには性犯罪のもつ、独特なあいまいさ、淫靡な妖《あや》しさは消えて、たんなる破廉恥罪が成立するだけである。  しかし、たいへん、微妙な強姦がある。  私の友人の元警官にきいたところでは、およそ強姦事件というのは成立しにくいのであって(もちろん一対一の場合である)、たいてい途中で、女が味な気になるか、あるいは、もろもろの事情にかんがみ、無駄な抵抗をあきらめてしまう、すると和姦と見なされてしまうのだそうである。  そこが、強姦と半殺のちがいである。  人間と人間のすることだ、あいだにちょっぴりでも人間らしい所がなくてはいけない。人間らしさ、というのは、通いあう気持である。  途中から和姦になっちゃうなんて、たいへん人間らしいことである。  半殺では、なりようがない。ゆえに、半殺は兇悪犯罪である。半殺犯人は死刑に処すべきである。  しかし一対一の犯人の場合は、多大なる情状酌量の余地がみとめられる。なんとならば、第一、一対一で強姦しようなんていう豪の者の男はいまどき、いなくなっちゃった。  たいていの男は、「イヤよ、バカ」なんて女に肘鉄《ひじてつ》をくうと悄然《しようぜん》としてひきさがる。不甲斐ないことおびただしい。それを押して挑みかかったって、いまどきの女は栄養がよくて体格も大きいから、猛然と反撃したら男はかなわない。痴漢に気をつけよう、とポリ箱《ボツクス》の看板にはよくあるが、痴漢にもよるけど、腕力胆力、痴漢よりたちまさる女の子も多く、いろいろ、対策も心得てる。 「男の急所を蹴ったらイチコロよ、なんて女の子いってるよ」 「急所ってどこです?」とカモカのおっちゃんのイジワル。 「金的よ」 「金的とは何だ」  うるさい! 「ともかく、そこを蹴るとか、目玉に指を突っこむとか、いろいろやりようあるじゃないの。そんなんして防いだら、男はぜったい強姦なんてできないよ。さびしいでしょう」 「しかし刃物をもってるとか、硫酸を顔にぶっかけるぞ、と脅すとか……」 「そやけど、手が三本あるわけじゃなし、刃物や薬品もってりゃ、残る片方の手で何ができますか、マゴマゴしてたら自分の大事なとこに硫酸かぶるのがオチでしょ、ともかく男が女を強姦するなんて、不自由でとってもむつかしいと思うよ、それをあえてやるんだから、一対一の犯人は、情状酌量してやらなくては」 「みなさい、やっぱり女は強姦を待望してるのです。イヤや、イヤや、といいながら、ほんとは好きなんとちがいまッか」  ちがうなあ、やっぱり。  意に反してコトが行なわれるのは誰ものぞむところではないが、もしそれが顔見知りだとか、思い当る動機があるとか、そういう犯人の場合、未明の暗い空から、だんだんにあけぼのの、うすべに色に空の色が変るように女の心は染められてゆくかもしれない。そこが人間らしくて、やさしくて女は好きなの。それがむくつけき警察用語でいうと強姦から和姦というプロセスなのかもしれないけど。 「ま、どっちにしてもおせいさんを襲うという男はいてへんから、和姦もあかん」  とカモカのおっちゃんは結論を出した。  付 け 根 考  さらにつづきをしゃべろうと思う。  私の友人である元警官がいっていた。——いや、その前に彼のことをいうと、この男なのである、私と亭主がいつまでつづくかを仲間と賭けていて、私の顔さえ見れば、頼むさかい、もうちょっと保《も》ってや、といってるのは。  また、この男である、なぜケイサツをやめたかときくと、あんなとこは人間が堕落するようにでけとるのじゃ、というのは。 「警察のメカニズムちゅうのは、知らん間にわるいことせにゃおられんようになっとる。おれは自分の性質上、今にもわるいことをしやせんかと怖くなったのだ、すると大勢の道連れを抱えこむやろう、しかし辞めてしまうと、たとえわるいことをしてもおれ一人ですむからな」  と、ふしぎな理屈をいう男である。尤も、辞めたのはもうだいぶん昔の話。いまはもの書きであるが、ともかくユカイなおっさん、その男がいう、一対一の強姦ができにくいわけはもう一つある、だいたいアレがへんな付け根にあるからだ、というのが彼の説である。  あたまの上にでもついてりゃ、男というものはおおむね、女より背が高いもんであるから、コトはたやすいのであるが、下の付け根にあるからには、当方の一存で自由になるはずがないというのである。  この、付け根という言葉がおかしい。  私は若い頃、誰かの講演をききにいき、講師先生が「××半島の付け根に○○という町があります」といわれたのがおかしくておかしくて、たまらず噴き出し、すると笑い止まらず、とうとう退席して廊下で身を二タ重に折って笑いころげて苦しんだ記憶がある。いっしょにいった友人(前に出た三十八、九の中年前期の男)は呆れて、何がおかしねん、といい、「いやらしいヤツやなあ、ナベちゃんちょっととらわれすぎとるで、あたまの中であのことばっかり考えすぎてるさかいや」というたが、じっさい、考えればおかしくなるではないか。  付け根という言葉もおかしいが、元警官のいうように、どうして足の付け根に神さまがつくったのかわからない。元警官はそれこそ神の摂理で、女が身を守るのに便利なようになってるのだという。上からおそわれたら腕でふせげるし、下からおそわれたら足で蹴って防げる。両方防げるように、ちょうどまん中に付けてあるのだという。  してみると野坂昭如センセイなどがキックボクシングにうき身をやつして、足腰をきたえていられるのも、貞操を守るに効あらしめんがためであろうか。死守するほどの貞操を野坂センセイがまだもってはるやろか、もうとっくに|ちび《ヽヽ》てしまって跡形もないのとちがうか、いや、やはり肉体の鍛練にいそしんでおられるのであろうと思う。べつに貞操にはかぎるまい。でも他事《よそごと》ながら「足腰をきたえきたえてガンで死に」(阿茶)という川柳もあるから、野坂センセイ、気をつけてね。  それはさておき、果して神意が那辺《なへん》にあるのか、なぜ足の間でなければいけないかは充分究明されていない。現代科学の及ばぬ圏外の疑問である。元警官の説も全然見当はずれとばかりもいえないだろう。そうでないという、たしかな証拠もないのだから。しかしいろいろ考えてみると、やっぱり、あのへんが妥当な線ではないかと考えられる。一軒の家を考えてもそれはわかろうというもの、たいていの家では応接間は玄関からほど遠からぬところにきまっていて、あんまり家の奥深く迷路のつき当りのような所へ応接間をこしらえる家はない。  役所へいったって会社へいったって、「受付」「窓口」というのは外からはいってすぐのところにあり、来客に便なるべく設計されている。  元警官のいう如く、あたまのてっぺんなどにあったら危くてしかたがないであろう。来客は便利かもしれないが、家人は気が散ってしまう。  のどくび、おなか、などというところはあんまり朗々と陰影がなさすぎて愛想がない。なるべく、うさんくさそうな、いかがわしい、陰にこもった、かくしやすい、ややこしい、あいまいな、うっとうしそうなところがよい。へっこんだような、ふところの深いところがよい。  のどくびやおなかだと平坦であるからむき出しで無防禦で心もとない。  やっぱり、まがりかど的な、「この路地、ゆきどまり」というふうな場所が、浮世の波風を避けるには安全であろう。そういう路地の奥には、区役所を停年退職したじいさんがへちまなど植えたり、いささかの盆栽を棚に並べて花鳥風月を楽しんでいる。路地の奥にも四季があって、そういうじいさんにかぎってびっくりするような美しい娘をもっていたりする。  そう考えると、やはり現在あるところが妥当ということにおちつく。それにちかいところとしては、神は、腋《わき》の下などを第二候補にされたのではないかと思う。腋の下も付け根の一つである。  げんに尊いひじりは母夫人の腋の下から生まれたという伝説さえあるではないか。ここもやっぱりまがりかどでややこしく、路地の奥で、へちまなど垣根に植わっておって、打ってつけの場所ではあるが、しかし日常の活動に不便という点ではやはり第二候補というほかない。もし、腋の下などにややこしいものがあると、肩を組むということは、非常にワイセツな動作になる。人前で見せるなど恥ずかしい。  手を組む、肩をならべる、などということも軽犯罪法に触れる行為である。 「ハラをいためた子供」、というかわりに、「ワキをいためた子供」といわなければならない。  ビキニ姿というのは、胸とワキを掩《おお》った形になる。袖なし《ノースリーブ》ドレスなんか、破廉恥で挑発的で、良家の子女や夫人はとても着てあるけない。  タクシーを止めようと手をあげたとたん、腋が見えたりしたら、ワイセツ物陳列罪でひっぱっていかれる。そうなると手のかわりに足をあげねばならず、交通事故は激増する。小学生はスカートまくりの代りに袖の下のぞきをやる。先生が女生徒の肩にさわったら社会問題になって、進退伺いを出さなければいけない。スポーツマンの男はワキあてをつけて急所を守らねばならず、妊娠は岩田帯をタスキがけにせねばならぬ。いろいろ不便である。  神々は額をあつめて、いかばかり苦慮し、検討勘案したことであろう。  公衆ベッド  女にとって、男のどんなことばが、うれしいだろうか。  それは女の事情によりまちまち。  美貌自慢の女なら、「ききしにまさる美人ですなァ」とむきつけにいうがよかろうし、頭脳自慢なら、「あなたと話してるとときのたつのを忘れます」なんていうのもよい。なべて、優越感をくすぐるのがうれしい。あたまのいい男なら、どんなことをこの女は自慢にしてるか、それを見ぬいてしまうであろう。何を自慢してるか、その依って立つ所を見ぬかれたら、「人いずくんぞかくさんや」手の内を読まれてしまう。  しかし、共通のことばはないであろうか? つまり美貌自慢も財産自慢もお育ち自慢も学歴自慢も、女という女、女でさえあれば、それをいわれてわるい気はせぬ、という言葉はなんであろうか。 「きれい、美しいというのはあきまへんか」とカモカのおっちゃんがいった。 「いや、もうその程度では間尺に合わない」 「意外と女らしい人ですな、というのは」 「まあ、やや、照準が合うてきた」  女らしい人、といわれて怒りたける女はあるまい。ウーマン・リブの女たちはしばらく措《お》くとして、「意外に女らしい所があるね」というのは一般的な殺し文句であろう。  しかし、ほんというと、ここだけの話ですが、「寝ませんか」といわれるのは、女にとって最上のほめことばであり、うれしがらせであり、夢であるのであります。 「そんなこというたら、|どつかれ《ヽヽヽヽ》へんか」  カモカのおっちゃんはさっそく試みてみるつもりらしく、 「四月一日以外の日にいうてもええのんかいな」 「いや、そらどつかれるよ」  どつかれるにきまってるが、どつきながら女はうれしい。女は人間としての値打ちをみとめられる前に女のいろけをみとめられたい。いやらしくいい寄られてみたい。  しかるに今の世の中、それを怒ってみせるのが女の美徳だということになっている。「寝ませんか」「まあッ失礼な、淑女に向って」とぶんなぐるのが良識とされている。また男も、内心この女を抱いてみたいと思ってもそんなことはオクビにも出さないのが、まっとうな紳士だということになっている。  それが偽善、まやかし、陋劣《ろうれつ》、うそつきの根本ではないか、と私はいうのだ。 「いかがですか?」 「ええ、よろこんで!」  と紳士、淑女、ダンスを申しこむように礼儀ただしく敬意と愛をこめて、まじめに楽しげに、しかし朗読調に声を張ってはバカみたいだし、耳打ちなどしたら淫猥《いんわい》で下劣、「いやらしい」といってもその最上の意味におけるいやらしさ、頃合いのいやらしい声と、話しぶりと表情でいい寄り、いい寄られるべきだと私は思うよ。 「お手合せねがえませんか」 「結構ですわ」  と町で会ったゆきずりの人にいえるような世の中だったら、どんなに自由でノビノビすることであろう。そういうときのために、公衆便所ならぬ、公衆ベッドなどを町角のそこここに備えつけておかねばならない、公園のおち葉に埋もれて、はたまた、港の片すみで海を見はらせるようなところで、オトナの会話ができるようだったら、どんなに楽しい性のユートピアであろう。 「いや、あんまりそうたやすくなるとまた、つまりまへんで」  というカモカのおっちゃんの見解であった。 「そう思うても、いうにいえん、そこにまた、人生の面白さもあります、苦労していわず語らず、長いことかけて思いを遂げるというトコにええ味もあるんとちゃいまっか」  そういう場合もあるであろうが、人間にはせっかちな部分もある。いま寝たいと思っても一時間のちにはどうなるかわからん、ことに巣作りが本能である女は、めったにそういう思いになることはなく、また、そういう男にめぐりあうことは親の仇にめぐりあうより、ウドンゲの花が咲くより珍しい。その一瞬をとりはずしちゃ、何のこともない。公衆ベッドが要る所以《ゆえん》である。  それに私の弾劾するのは、双方、意気投合してるのに、世間|てい《ヽヽ》でよけて通るウソツキ精神である。  昔、一休禅師が他人の女房と酒を飲んでいたときのこと、日も西山に入り、一休は女房の袖を捉え泊ってゆけといった。女房は沙汰のかぎりと袖を払い、「夫ある身に何というご無体。世間の評判とうらはらな、このなまぐさ坊主め」と柳眉《りゆうび》を逆立ててかえった。夫にかくかくしかじかと報告すると夫は手を打って笑い、さすがは一休や、ええこといいはる、何で泊ってけえへんねん、というのである。女房はあわてて化粧し直してひき返し、「夫、苦しからずとて……はずかしながら」ともちかけると一休はもう手枕で眠っていて、「いやいや、もはやいやにて候。おん帰りあれ。先程はこなたへ心かかりたるが、はや心かからず候」というたとある。行雲流水、心動くときは動かし、動かざれば動かしたまわず、と古い本には感心して書いてある。一休というのは非常に正直な人であったように私には思える。これがカモカのおっちゃんだと、動かぬ心をむりにふるい立たせ、意地きたなくむしゃぶりつくところ。すべて人は行雲流水で公衆ベッドを利用できるように修養せずばなるまい。女も、もちかけられて内心はうれしいくせに、沙汰のかぎり、などと、まなじりを決して一一〇番をよぶ、という偽善精神はあかんよ。尤も、いい寄った男が気に食わなきゃ、顔をひっぱたくのもよろしかろう。  すてきな好もしい紳士と偶然、酒席なんかでとなりあわせ、話すほどに気が合い、 「いかがです」 「ええ望むところですわ」  なんてことができるようになったら、生きるたのしみは倍加し、いかばかり仕事に張合いができるであろう。人生はバラ色に輝くであろう。  女から「寝ませんか?」ともちかけられた男はどうなんであろう? 男もやはり嬉しいであろうか? 「イヤ、それは……」  とカモカのおっちゃんは重々しくいう、 「逃げとうなります。そんなんにかぎって山ウバか鬼瓦です」  ポルノについて  夜のテレビドラマをはじめてゆっくり見て私はビックリした。 「たいへんだ、たいへんだ」  私は水割りのグラスをとり落しそうになって叫び立てた。 「テレビドラマで……天下の公器で……(私昂奮して舌が廻らない)ブルーフィルムやってんだ、どうすべい、テレビ局へ電話したろかしらん、一一〇番がええやろか」  カモカのおっちゃんは首を廻してテレビを見、私がワナワナと震える指でさす画面にしばし目をこらした。  そこにはお腰元が腰巻きもあらわにめくれて上半身ははだかで、ちょんまげの侍に抱きすくめられようとしていた。彼はゆっくりと、 「まあ、このぐらいやったら、べつにカッカすることないのん、ちゃいまッか」  といい、私は憤然、 「けど、べつにこんな場面、あっても無《の》うてもええのんとちがうのん」  あらずもがなの危な絵をむりやり挟むからいやらしい、というのだ。  大方の筋になんの関係もないのに、腰巻きの赤いのがめくれる所を見せる、なんていうのはサービスか媚びか知らないが不見識もはなはだしい。  しかしカモカのおっちゃんは、あらずもがな、ならばべつにあっても差支えないという。このオッサンとはこういう所でいつも食いちがう。  小説も映画も、近頃はもうやたら腰巻きやパンティがめくれたりぬげたりするので、食傷してしまってゲップが出る。私はこのところ、なるったけ色けのないものが読みたくなり、そうかといって宗教・学芸等の崇高な書物がわかるはずもなく、もっぱら「大アマゾンの秘密」だとか、「ゴビ砂漠探検記」「恐龍の世界」「宇宙の神秘」なんて通俗科学書や通俗探検記なんかの古本を捜して読んでいる。  猫も杓子もポルノを書いたり読んだりするから、もうほとほと、いやらしさに愛想がつきるのだ。その上、若い者が見ているテレビまで、どうして赤い腰巻きなんぞ見せるのだ……。 「そういいながら、あんた、さっきからテレビにずーっと、目ェ据えてるやおまへんか」  とカモカのおっちゃんはいい、私は裸のちょんまげの侍から、あわてて視線をそらせる。  たとえば、私がきわどい場面を入れてほしいと思うのは、昔あった映画でいうと、堂々としたりっぱな大作。「戦争と平和」とか「ドクトル・ジバゴ」とか、あるいは「ローマの休日」みたいな可愛いの、「羅生門」や「七人の侍」みたいにちゃんとまとまったの、そういう大作の中にはいっている場面だと、すばらしいだろうなあ、と思うのだ。きれいなオードリイ・へップバーンや、三船敏郎や京マチ子さんなんかが、その映画の世界の中で見せてくれたら、どんなにすばらしい芸術作品だろうと思う。  アンソニー・パーキンスとイングリッド・バーグマンが共演した「ブラームスはお好き?」という映画も、ちゃんとそこまでうつっていたら、どんなに結末の物悲しさが増すことだろう。「クレオパトラ」のエリザベス・テーラーと、アントニーのリチャード・バートンなんかのきれいなそんな場面があったら、アントニーとクレオパトラの死もいっそう悲劇的になったであろう。  いまはまだ、そこまで人間は性を解放し得ない。  でも、やがてはそうなるだろう。それを描かずに、よけて通ることはできなくなるだろう。  それがいまできないものだから、その場面だけをとりあげて、拡大して別の人間が演じて見せてるのがブルーフィルムで、前と後がないもんだから、つまり、たいがいのブルーフィルムは女が見てつまらないのである。  女は、男とちがい、物語性を愛するのである。ソコヘいきつくまでの物語と、いきついたあとの展開が面白いのであるのに、ソコしかうつっていないのでは、つまらない。男はソコだけで満足できるから、あきることなく同じようなブルーフィルムを見ている。女はいっぺん見ればあとはみな同じでつまらない。それに、写真やフィルムはよほど美的感覚がないと却って醜悪にうつる。その意味からもすぐれた技術と感覚で、がっしりした構成とテーマの展開に支えられて、ポルノ場面をとらなければ、いまみたいに、ソコはソコ、ホカはホカ、とばらばらにとってたんじゃ、いつまでたってもだめである。  そうして醜悪なる危な絵や春画ばかりがちまたに氾濫する。  小説でも、やたらソコのところばかり書きまくる。  道具立てと主人公が変るだけで、テーマはソコを書くことしか、ないのだから、しぜん単純にならざるをえない。  すばらしい純愛小説を読んで来て、ソコまできて、またこってりと書いてあったら、どんなに食欲が充たされることだろうなあ。ところが小説の世界でも、ここは二タ手に分かれていて、序章と終章専門の正面文学と、ソコ専門の裏口文学となって、バラバラである。  管轄がちがうようになっている。  こんなことでは、とうてい文化の何のといえない。人間はまだせまい、窮屈ないじけた世界に住んでる。  それで私は絶望して「大アマゾンの秘密」とか、「宇宙の神秘」とかいう科学・探検ものを読むのだ。  ところで、それはどこにのっているかというと、「少年マガジン」で、ジャリの本もたまには有益なことがのってる。  しかしカモカのおっちゃんによれば、ポルノが解禁にならないのは、ジャリに与える影響をおもんぱかるせいであって、ジャリというのはじつに始末に困る、という。  私はジャリには早くからポルノ洗礼をほどこし、そういう捉われた意識から解放してやりたいと思うものであるが、まだまだ、現在のオトナではそういう風に考えない人が多い。げんに私も、テレビにきわどいところが出ると、大いにうろたえ、ジャリが来てはたいへんだと戸をしめたりする。これこそまやかし、偽善でなくて何であろう。  ジャリこそ諸悪の根源である。ジャリを撲滅すべきである。  乱交パーティの視線  人のすなる乱交パーティを、我も見んとて打ち出でた。私のは見て書くためで、これは邪道であろう。乱交パーティ(あるいは蛮交パーティ)は参加するだけで意義があるのではなく、参加してヤルためのもので、ミルだけではいけないのだ。  場所は某ホテル、尤もホテルといっても国賓や要人の泊るそれではなく、アラビヤのハレムか清朝《しんちよう》後宮かという例の飾り立てたある種のホテル(そんなん知らんという人は、大阪の高津《こうづ》、桜の宮、上六《うえろく》、阿倍野、十三《じゆうそう》、太融寺《たいゆうじ》近辺を探訪せられよ)、そこの一室、私と仲介者が待つほどもなく、パーティ主催者と場所提供者があらわれた。主催者といっても肝煎《きもいり》ぐらいのところで、ほんとの黒幕の主催者は謎である。肝煎は妙齢にして国籍不明の美女、提供者の方は精悍な壮年の男、ドスが利いてサビのある声で、「今日はパーティの会場が変りました。ここではありません」という。それに、といってニタリとし、「一日会員でよろしいからおはいり下さらないと、どうも見るだけというのは困ります」 「それはそうでしょうが、曲げて」 「曲げてもへちまも、見るったってどこから見るんです、マンションの一室なんでね。忍びこむところなんざ、おまへんよ」 「会費は出します」 「会費は二倍出してもろても、見るだけは困りますな、やっぱり脱いで入ってもらわな」 「脱ぐ」 「そう。はじめに全部ぬいでロッカーヘしまい、そのキイを主催者があずかります」  と宇能鴻一郎サンの小説みたいなことになってきた。私はしばらく沈思し、 「イヤ、そら、かなわん、私、脱ぎとうない」  私は体に自信がないのでも、亭主に知れると叱られるからでもない、脱いだあと、どこを見てていいか、わからないからである。人は向きあうと、たいてい顔や胸元、ネクタイとか、ドレスの衿もととか見合って話をしたり、うなずいたりする。それが慣習である。しかし真ッぱだかの男なり真っぱだかの女なりと向き合った場合、人はどこを見るか。視線がだんだん下へいくような気がする。或いはこれは、私の取越苦労であるかもしれない。しかし私は、そんな気がしてならない。真っぱだかの男や女と向きあって、顔ばかり見てられる人は白痴《こけ》か仙人である。  見たっていいではないかと、いわれるかもしれない。  しかし私はいっぺん見たら、視線がニカワでくっつけたように離れないかもしれない。  われとわが心に(コラッ、あっちを見ろ!)と叱咤したっていうことをきかばこそ、穴があくほど眺めつづけ、まばたきも忘れて目の玉が乾くかもしれへん。  いやらしい。  だから、やめとく。他人の視線だって同じで、私はきっと、殺人光線でやられたように感ずるであろう。  肝煎の美女(これは窈窕《ようちよう》たる美女、雲か霞を食べて生きてるような、あえかな佳人だった)、とりなすごとく、 「まあ、そういうパーティはどうしても会員の事情もございますし、こっそり見るだけということは無理ですが、そんな大がかりなものでございませんでしたら、いますぐでもご覧になれますわ」  と花の如く微笑む。私はうちよろこび、 「えっ、ほんと、勿論、大がかりでなくても、小がかりでけっこうです」 「それはこの部屋でございます」  美女はあだっぽくいい、 「カギを締めれば誰もまいりませんし、ちょうど殿方二人、われわれ女性二人でございますからね、カズはちょうどでございます」 「イヤ、私もそのカズの中に入ってる?」 「ハァ、やはりパーティの面白みは体験にございます。ご覧になったところで、どうせその十分の一もおわかりではないでしょう。私もですが、この人も」  とドスの利いたあんちゃんを指し、 「何十人という社会的地位も名誉もある会員の方々のお世話をさせて頂いております関係から、口は堅うございます」 「やはり脱いで……」 「スチームが利いておりますからお風邪を召すことはないと存じます。カギは二重カギでございます。でははじめましょうか」  危うし、おせいさん、虎穴に入って虎児を得るどころか、虎の餌食にされようとする。仲介者の男、おそるおそる出て、これは助け舟を出すどころではなく、顔は輝き舌ももつれ、 「僕もすっかり脱ぐんでしょうね、あの、メリヤスパッチもみんな……」 「ええ、どうしても何か一つ身に着けたいと言われる向きは、ネクタイをじかに首に締めて頂くことになっております」  真ッぱだかにネクタイだけしめてどうするねん、あほ。  ドスの兄ちゃんはニタリニタリと不気味な笑い、これも窈窕美人と別の意味でおそろしく、私と仲介者はあわただしく額をあつめ、 「これも仕事のためでっせ、仕事には命を賭けるのが武士のならい、あきらめなはれ」  と仲介者、私はしたい気持と、したくない気持と半々である。 「やりますか」  とドス兄いは上衣を脱いだ。この期に及んで私はまだ、アブラ汗を流して迷っている。 「やってもええけど……どうしても脱いで体験せなあかんのやったら、……やってもいいのであるが……」  つまり、視線がいけないのだ。四対の目玉がキョロキョロしていては、脱いだあと里心がついて困る。といって酒を飲んだら、いいごきげんになって、じっくり観察研究する取材はできないであろう。一時的にみんな目つぶしをしてやるということは、できないものでしょうか。しかし、にわか視界不良が四人あつまり、ウソウソとうごめきまわっていたって、どれが頭やら尻やらつかみ所もなく、サマにならぬ。  いやほんとうに、人間の体には余計なものはないというが、目玉というのはときにより余計なものやわねえ。  淫  風  わが友、カモカのおっちゃんによれば、女のよしあしをきめるポイントはただ一つ、 「抱く気がおきるか、おこらんか」ということだそうである。 「その抱く気、というのは、若いとか、セクシーなグラマーとか、美人とか、そういうときにおきるのですか」ときいたら、 「イヤ、それにはかぎりまへん。ま、それも大いに勘考されるが、それだけやない。より以上に、その女のもつエスプリ、いいまンのンか、人間味、愛嬌度などが重大な要素としてプラスアルファされますなあ」 「ええ年してロマンチックやな」 「ええ年やから、ロマンチックになるねん」 「たいがいの男て、女やったら誰でもええのんとちがいますか」 「そら、そんなもんやない。ハタチ代ならともかく、人間、四十代になると、若うてきれいやったらええ、というわけにいかん」 「男って気むずかしいもんね」 「いや、男は精神的なんですわ。まァ、例えば女学者の中根千枝女史なんかゼヒ抱きたい」 「なるほど」 「あの人はいうことも書くことも面白いし、笑い顔なんか天下一品、ものすごう可愛らしい」  中根サン、痴漢に気をつけてェ! 神戸へ来たら貞操の危機よ、狼がねらってます。  では女が、男のよしあしを定めるポイントは何だろうか。  よしあしというより、少なくとも私にとって好もしい男、男らしい男、あらまほしい男、男くさい男、の基準は何だろうか。 「私、思うに、その男のプライベートな時間の顔や姿を想像できる、そしてこっけいでもなく、違和感もない、そういう男が好きですね」 「プライベートというのは、トイレでしゃがんだり、足を拡げてつっ立ったりしてるときですか?」 「バカ、もう一つのプライベート、つまり閨房《けいぼう》の中にきまってるでしょ」  男はいろんな場所で、シャカリキに仕事している。  この世の中、やはりまだ、フマジメ人間よりはマジメ人間の方が圧倒的に多いらしく、男たちはおおむね、生業にいそしんでいる。  壇上で獅子吼《ししく》する政治家、長距離トラックの運転手、声を嗄《か》らしてる競馬予想屋、テレビで汗かいて歌ってる歌手、地下鉄掘ってる出かせぎのオッサン、葬式の最中にしつこく取材して水をぶっかけられてる週刊誌記者、みな、けんめいに仕事にうちこんでいる。  その、仕事にうちこんでいる顔と、こうもあろうかと想像する夜の顔が、ぴったり重なって不自然でない、そういう男が好き。 「しかしそら、想像したらみんな、そうとちがいまッか?」  それがちがうんだ。  どうしたって、プライベートなときの顔や姿が想像できないタイプの男がいる。あんまり自分を出さず、注意ぶかく慎重に、言動をつつしみ、非のうち所もない世渡りをして、腹の底の知れないような男。  また、想像しただけで、こっけいになり、おかしくなるタイプの男がいる。威張り返って、説教するのが好きで、張りボテの威厳に身を包んでいる男。  また、かりにも夜の顔や、プライベートな姿態など想像してはいけないような、むしろ想像した自分を恥じなくてはいけないような、いや、この人にかぎってそんなことあり得ないと信じたいような、神聖おかすべからざる、厳粛荘重な気分にさせるタイプの男がいる。  そういう男たちは、私にとってはみな、にがてである。  私にいわせれば、シャカリキに仕事もし、ひたすら、ベッドでもいそしみ、その間をつなぐ|ヘソの緒《ヽヽヽヽ》にちゃんと血が通っていることが感じられるような人間味がなくちゃ、つまらない。  どっちの顔も、この男が人生でもっている顔であり、どっちも真実だと思わせるような、正直なものがなくちゃ、いけない。  そうでなければ、「生きてる男」の感じがしない。淫らなかんじがなくちゃ、いけない。  あたまのてっぺんからつま先まで、熱い血がドクドクしてる感じがなくちゃいけない。  そういう男たちは、みんな率直で正直で、ぶってない。  ウソつきでもなく、傲慢《ごうまん》でもなく、ハッタリもない。  あるとしても、かえって人間らしく見せるためのもののような、一ばん良質のハッタリである。  そうして、マサカ、自分がそういう風に見られているなどとは夢にも思わない、そういう男が好きである。 「ああ、いやらしい女や、オマエさんは」  とカモカのおっちゃんはいった。 「男見たら、夜の顔を想像してはりますのんか」 「男だけやありませんよ」  家だってそうである。このごろ、雑誌、週刊誌に家のデザインや部屋のもよう替え、つくりつけ、などの写真や記事が出てないのはない。  私が、いい家、いい部屋、と思う基準は、そこで寝る気になるかどうか、ということである。誰も皇居大広間で寝たいとは思わぬであろうし、空手道場の荒ダタミの上でその気になろうとは思えぬ。  寝るというのはむろん、あの意味であるが、私は人間の住む家、人間の住む部屋というのは、いい意味で、淫風《いんぷう》がかんじられなければあかん、と思っている。それゆえ、あまりに飾り立てた、とりすました家や部屋を見ると、ここの住人は、れいのときは外でモーテルでも利用するんじゃないかとかんぐってしまう。ひいては、町全体、淫風むんむんしてるなんて、じつに人間らしい、いいことなのだ。ビルや地下鉄で固めてオール町中オフィス街にしてしまった大阪都心部なんてもう死物化した。  そこへくると団地なんて、これはすごいよ。ずらりと並んだ無数の窓の灯、無数の窓の愛、十里淫風なまぐさい感じ。長安一片の月、万戸肉弾|相搏《あいう》つの声。  イヤ、結構ですなあ。  潜 在 願 望  小松左京さんがいっぺんやってみたいのは因業《いんごう》ジジイの役だそうである。  江戸時代の映画や芝居によくある、金貸と女郎は江戸の華、借金の抵当《かた》にいやーな因業ジジイが、可憐な娘をひき立ててゆく、という図柄。 「長病みに女衒《ぜげん》のみえる気の毒さ」という川柳もある。  借金の方策も尽きはてた貧乏人は娘をお女郎に売りとばす。あるいは悪人づらのバクチ打ちの親分や高利貸のヒヒジジイに連れ去られる。  ジジイはにたにたと笑いつつ、ふるえて泣いている娘を、 「まあまあ、そない怖がらんでもええやないか」  などといいつつひき寄せ、長病みの床からやつれたお父《とつ》つぁんが声ふりしぼって、 「娘だけはごかんべんを」  と足にとりすがる、それをハッタと蹴たおし、形相一転してすさまじく、 「ヤイヤイヤイ、ほんなら貸した金、耳をそろえてここで返しやがれ。よう返さんのやったらその抵当《かた》に娘連れていくで。どや。文句あるか、ちゅうねん」  と吠える。娘はますます、ヨヨと泣いたりしてる。 「いや、こたえられん、そんなん、いっぺんやってみたい」  と小松ちゃんはあこがれ、しかし今どきそんなことしても、娘は身を揉んで笑い転げるであろう。  人身売買も搾取も、たしかに現代まだ行なわれてはいるものの、変貌して巧妙にすりかえられているから、かほどストレートな形に出てこない。男がやってみたいのはそのストレートなヤツだそうである。 「どうです、オタクもやりたいですか」とカモカのおっちゃんに水をむけると、俄然、満面に喜色あふれ、 「イヤー、それそれ、よろしなア、男の潜在願望です」  けったいな奴。  小松ちゃんはぜひ「ヒヒジジイ・クラブ」を作って同好の士を募りたいといっている。  なぜ男はヒヒジジイにあこがれるか、やはりそんな能動的なことができなくなったためではないかしらん。  男はみんな人の顔色を見い見い、動かなければならぬ世の中であります。なかんずく、女性の顔色を見つつ生きねばならぬ。  モノをいえば立板に水で一刀両断に切りすてられる。何かいおうと思っても、問答無用! と吐きすてられる。オロオロしてると、このとんま! と衿がみつかまれる。  くやしい、無念。  怨念《おんねん》がこり固まってテレビや芝居映画の因業ジジイに拍手をおくるのだ。そうして自分がやってるように思ってうっとり、空想するのではあるまいか。「ゆるして下さい、そればっかりは」とかよわく抵抗する娘をしょっぴく、パンパンと頬っぺた撲《は》る、エイヤッと投げとばす、足蹴《あしげ》にする、みすぼらしい着物をひんめくる、ワー、バンザイ、その快感。  女をいじめること、しかも貧しい女となると、とっても男はうれしいらしい。 「ヒヒジジイ・クラブ」は押すな押すなの盛況になるであろう。  現代の女だったら、佐藤愛子チャンではないが、夫や親兄弟のために舌打ちしつつもかけずり廻って金策し、期限のおくれた返済の弁解をし、心身をすりへらして高利貸と折衝する女傑、女怪も少なくない。  しかし考えてみると、楽という点では昔の女は楽である。  運命の波のまにまに漂いまかせて、泣いてりゃことがすむ。  どんな苦界《くがい》に堕《お》ちたって、わるいのは世間や因業ジジイで、娘はただもう、かよわい、いたいたしい、あわれな、心ぼそい、やさしい存在なのだ。  非力、無力で何にもできない、責任は何にもない、娘にわるい点はちっともない。ただもう庇護《ひご》すべき、あるいは凌辱《りようじよく》されるだけのかよわい存在であればいいのだ。  神さまか赤ん坊みたいなもので、娘は泣いてりゃすむ。あたまも使わず見栄もはらず、されるままになってる方が、なんぼか楽である。  いいなあ。  いろいろ考えて、昔の女の方が気楽だったんだと結論し、現代女性は今更のごとく愕然《がくぜん》とするであろう。女はかしこくなったが、不幸にもなった。  強くなったが、|しんどく《ヽヽヽヽ》もなった。  昔の女みたいにヨヨと泣いてみたい、そう思う女も意外に多いかもしれない。運命の波のまにまに漂い流されてしまいたいと内心思ってる女史たちもいるかもしれない。——古風にも古風のいいところがあるもんだと、女は女で「古風クラブ」をつくるかもしれない。  しかしまた、そうなったとしても、いまの男は颯爽《さつそう》と因業を立て通してくれない。  女のほうがそういう恰好をしているのに、なかなか合せてくれない。  だいたい男はぶきようであるから、調子を見て合せるということができない。  女も女で、一見どんなにしおらしげな女でも、いろいろと思惑もあり見つもりもあり、その通りにしようなどと、いろいろ気くばりして、中々昔の娘のようにヨヨと泣くだけではすまない。  教育というものはいいかげんなチエを人間につけるものだ。  男のいうようにして、やさしくてしおらしくてかよわい、いたいたしいようすの女になっていたって、たいがいの女は心中、 (ソコとちがうよ、ボンクラ!)  などと思っているであろう。 (またそんな見当ちがいのことをする、ほんとうにもう、どうしようもないんだから!………)  と毒づいているであろう。 (サッサとやればいいのに、何をもったいぶってんのだろう)  とじれったくも思うであろう。  まあ、ヒヒジジイも古風な娘も、講談や芝居の中だけで、それゆえにこそ、男・女の見はてぬ夢であろう。  四 十 八 手  いろは四十八文字、あれを七字ずつ並べ、一ばん下の字を横へ拾って読んでゆくと、「とかなくてしす」——咎なくて死す——になる、赤穂の四十七士をこれゆえになぞらえて、「仮名手本忠臣蔵」のタイトルを付したのだという人もあるが、ほんまかいな。  すると例のラブスタイル四十八手も、咎なくて死ぬから、四十八手とつけたのかしらん。  四十八手というのは何々をさすのか。向学心旺盛な私はあらゆる文献を渉猟《しようりよう》したが、不幸にしてそれを明記した書物はない、私の行動半径がいかに狭く、人生的キャリアがいかに浅薄皮相であるかがわかろうというものだ。  大先輩・野坂昭如センセイにきけばイッパツであるが、何やら業腹である。センセイのことだ、莫大なる束脩《そくしゆう》を要求した上、いざ入門すると知識の出し惜しみをしてオトトイコイと一蹴するかもしれへん、或いは実地教授と称してあやしきふるまいに及ぶかも知れぬ、君子危うきに近よらず。  カモカのおっちゃんは、これはダメ。この年頃の男は概して遊んでない上に、下情に通じてないから、てんで芋の煮えたもご存じない、松葉くずしがどっち向いてるもんやら、茶臼がどうなったもんやら知らんくせに、いたく興味を催して好奇心ムラムラ、「よっしゃ、調べたるわ」などと、独学独習で文部省検定試験でも受けるような意気ごみである。  バーのママさん連、ホステス、仲居さん、私の知ってる女の通人たちにききまわったら七つ八つぐらいまでは名をあげてくれたが、四十八手も諳《そら》んじてるバカは居らん。 「だいたい、型は基本として二つ三つやからね、四十八手がなんぼのもんじゃ」  と彼女らはいう、然り而《しこ》うして、四十八手についてはいたく冷淡である。  そこで私は一つの発見をした。それは、男は概してこういうお遊びに熱心であり、女は冷淡である、ということ。  男にとってはプレイであることが、女にとっては真剣であること。「枕絵の通りにやって筋違え」るのは男がいい出すのであって、女はそれを弄《もてあそ》ばない。四十八手とは何々ぞと手に唾して勇み立ち、一々それを試みんと気負うのは男で、「それが何ぼのもんじゃ」と無関心なのは女である。  女はあれを試《ため》し、これを試みてみる気はおこらない。女はおおむね、性については保守的で頑迷で、進取の気象に恵まれとらん、フロンティアスピリットに欠けとる、と思われる。もし活溌な性的好奇心をもつ女がいたとしても、それは彼女の本然のそれでなく、彼女をそうつくった既往の男たちの感化であるような気がする。  そうしてたとえば、一度すてきな快感を知る、すると男たちはそれに匹敵する、あるいはそれを上廻る快感が、ほかのやりかたで得られはせぬかと狂奔《きようほん》し、あれかこれか、と試みるであろう。そういうときの男の執念たるやものすごいもの、そしてしつこいのだ。つまり快楽に対して意地きたない。攻撃的である。しかし女は、前回と寸分たがわぬようにくり返して、同じ快感を得ようと努力するであろう。そのぐらいちがう。  つまり男は、間口のひろがりで四十八手を数え、女は一つの内側で四十八手を見つけようとするであろう。  女にいわせれば、同じ男と同じような条件の下で試みても、いつも結果は同じというわけにはいかない。  あるときは最高で、あるときは最低ということもある。その時々でちがう。 「そんなんを四十八手というのんとちがうのんかしらん」  と三十二、三のホステスがいっていた。彼女は奥さんではないが、特定の恋人がいる。そして、彼女にいわせれば、三年来の恋人と何べん愛しあっても一回として同じのはないそうだ。毎回、趣がちがう、という。  しかも、スタイルは毎度おんなじなのだそうだ。  ただ相手の男が、毎度ちがうと感じているかどうかはわからない。  彼女の側にかぎっていえば、まず、その日の気象条件がちがう、という。  お人よしの彼女は、男から金を絞る手腕がないので、あんまりいいマンションに住んでいない。ごく普通の木造アパート。夏暑く、冬寒い。外気の気象条件がすぐひびく。暑い寒い、湿気がある、乾燥している、それは肌に直接感じられる。  次に食べもの、飲みものが毎度ちがう。満腹になったとき、酔っぱらいすぎたとき、ちょうどいいかげんのとき。  そういうことも、いちいち影響する。  また、それらは物理的原因であるが、いちばん大きい、感情的な原因があって、二人がとても仲よく理解し合い、最上の状態でいるとき、あるいはまた、いささか感情の錯綜があって、会話がスムーズにいかないとき、これはもう、全くちがうという。  全く同じ動作をし、全く同じ手順でコトが運ばれているにもかかわらず、中身はちがうという。 「そこがふしぎよね——」  と彼女は感に堪えたごとくいう。  前回、最高の結果だったから、今度も、と思ってると、どこか、ちぐはぐになってるそうだ。あんまり期待してないときに、とてもすばらしかったりする。それでその次も、同じような条件にして意気ごんでいると、またはぐらかされるという。 「そこが生きてる人間の面白いとこかもわからへんけど」  と彼女は残念そうにいっている。  これを考えるに、女というものはじつにデリケートなものである。男はやたら、形や相棒の新型ばかり追っているが、女は旧来の型式を墨守《ぼくしゆ》し愛好して、形の上の目新しさを追おうとしない。男の四十八手はかぎりがあるが、同じ相棒、同じスタイルの中での毎回ちがった女のそれは無限であろう。  古歌にいう、「聞くたびにいやめずらしきほととぎすいつも初音の心地こそすれ」というのはこのことかもしれない。  女のそれは生涯に百手、千手と開眼してゆくものなのだろう。女の性の深く窮《きわ》まりないこと、男の性の比ではない。  子供より男 「未婚の母」もけっこうであるが、私個人にかぎって申せば、子供よりは男のほうをえらぶ。私生児をもつよりは、内妻《ヽヽ》ならぬ内夫《ヽヽ》をもつほうがよい。  尤も、彼女たちが子供をもちたがる気持はわからないことはない。男はキョロキョロとして気持が定まらず、手もとへ縛りつけておくのは容易でないが、子供はいったん生んだら母親のものである。男に対する支配欲、権力欲を、子供を通じて発揮できるし、一生、男と縁がつながれるのだから、この意地わるいよろこびはこたえられない。男が逃げたって、子供があるという事実は消えないのだから、こうなると生んだほうが勝ち。  男も枕を高くして寝られなくなった。身に覚えのある男は夜半めざめて、とつおいつ考えこみ、そうなるといい方へ考えがいかずわるいほうわるいほうと考えるのは人のならいである。最悪の場合、つまり家庭を破壊し職場をクビになり、信用ゼロで後ろ指さされ世間の嗤《わら》い者になるという暗澹たる前途を想像して、ひとりキャッと悲鳴を発し心胆を寒くすることもあるであろう。男ってお気の毒。  しかしながら私は子供は好きなのだけれど、子供と男と、どっちをとるかといわれれば男のほうが好き。だから私、子供は生まない。  子供を生んで可愛がるよりは、自分が子供のように可愛がられるほうが好き。  子供を抱いて子守歌をうたって寝かせるよりは、寒い晩にあったかい男の寝床にもぐりこんで、男のふところに冷えた顔をつっこんで、男に衿元《えりもと》まで蒲団をかけてもらって、男にぬくぬくと抱きしめられてねむるほうが好き。  子供に、あれ買って、これして、とまつわりつかれて甘えられるより、男に、これ買って、あれをして、と甘えるのが好き。そうして男がいうことをきいてくれないと、ふくれて靴で男の足を蹴って、ものをいわれても返事をせず、仕方がないので男がそれを買う、すると急にニコニコして男の腕に手を通して甘ったれて歩くのが好き。  むし暑くって眠れない晩は、男に団扇《うちわ》であおがせて、男がツイねむいもんだから手がゆるゆると止まってしまう、するとパチンと手を叩いてやって、ビックリした男がまたあわてて、団扇であおいでくれるというようなのが、好き。  外で一日あそんで来てかえると、るす番をしていた男に、ほかの男にもてた話をくわしくきかせ、コート、帽子、服、手袋、くつした、と一つ一つばらばらにぬぎ散らし、男が一つずつひろってハンガーにかけてくれる、というのが好き。  朝、男にほっぺたを軽く叩かれたり、髪にさわられたりして、「もう起きなさい」とやさしく起こされるのが好き。「目ざまし鳴ってるじゃないの、学校におくれるよッ」と子供を叱咤するより、ずうっと、ずうっと、好き。  男がヒゲを剃っている、それを熱心に見ながら、どうして男って毎朝、毎朝、ヒゲが生えるのかなあ、とつくづく、ふしぎがるのが好き。  男のコートを着てみたら裾がひきずって手がかくれてしまって、男の靴をはいたら足が三つはいりそうなくらい大きくって、それをひきずってあるいてキャッキャッと笑うのが好き。  じゃまくさいので、もうお風呂へはいらないといったら、お尻をぱちんと叩かれてむりに服をぬがされて風呂へ漬けられて、熱い熱いとあばれたら、 「十《とお》かぞえるまで」  と怖い顔で叱られる。数をとばしてよんで飛び出そうとしたら首根っこをおさえられて両腕に抱きしめられて漬けられてしまう、男の胸毛が清らかな熱いお湯の中で海藻みたいにゆらいでいるのが面白くって、じっと見ているうちに、やっと、 「九《ここ》のつ、十《とお》おう」  と男がいって抱きあげてくれるのが好き。  海水浴で、男はぐんぐん沖へ泳いでいく。私は泳げないので海岸でバチャバチャして遊ぶ。男に浮環をそろそろと押してもらって、私は浮環の中におさまり、空を見、沖をながめ、自分で泳いでるような気がする、大きい波がきておぼれそうになって男の首にかじりつき、横抱きにされて浜へ連れかえってもらう、男はまたひとりで沖へ泳いでいってしまう、うらやましいような、悲しいような、男がたまらず慕わしいような切ない気持で、波のしぶきともつかず涙ともつかず、顔を濡らして沖を見ているのが好き。  お茶を飲むとき茶柱が立ってるのを見つけて、わざわざもっていって男に見せ、びっくり、感心させるのが好き。  あたらしい服がとどいて、さっそくそれを着てみる。背中のファスナーを男にひっぱりあげてもらって、くるりとふり返ったとき、男がにこにこして、よく似合う、といってくれるのが好き。その請求書を男の机の上にもっていっといて、そのあと、どうなったか知らない、二度と洋服屋が請求してこない所をみると、たぶん男が払ってくれたんだろうが、そんなことあんまり深く考えたことのないのが好き。  レストランヘ出かける、男のとった皿のほうがおいしそうだと、それを指して私の皿へ入れてもらい、私のは男にやらず、みんな、食べてしまうのが好き。  エビの皮をむいてもらい、エスカルゴを殻から出してもらう、むいたのをたべるのは私で、むく役目はいつも男、そんなのが好き。  そうして毎夜毎夜、男のふところに顔をつっこんでねむり、寝物語をせがみ、男がねむがってレコードがゆるんだように言葉がとぎれると、耳をひっぱったり鼻をつまんだりしていじめて目をさまさせるのが好き。  だから私は、子供を生んで可愛がるより、男に子供みたいに可愛がってもらうのが好きだというのだ。  問題は、そんなに可愛がってくれる男を、どこで見つけるかということだな、うん。  それがわかりゃ、苦労はせんよ。  如上のべ来った範例は、私の父親、オーマイパパでありました。なにウチの亭主がそんなことするもんかいな、あほらしい。——でも、割合、ちかいです、ごめんね、イヒヒヒ。  セーラー服の女学生  わが家は何をかくそう、いま崩壊寸前、離婚必至の状態なんだ。そりゃそうでしょう、モノ書きの女房などもっていりゃ、男は四六時中後悔のホゾを噛み、離婚を考えるのが当然。かかるが故に、私と亭主《おつさん》の仲は、現在、一触即発の状態である。ノロケて見せるのは、女の虚栄である。よく世間でいうであろう〈ああうれし、隣りの夫婦離婚する〉、アーリガトゴゼマース。なるったけ近い将来にご期待にそうことを約束する。  さて、カモカのおっちゃんのところも今や崩壊寸前という、尤もそれはかなり彼の主観的な独断の色合いをおびているのは否めないが。  女房《よめはん》は彼にはガミガミと辛くあたり、彼の面倒はろくに見ないという。しかのみならず、齢と共に大ぐらい、大いびき、汗っかき、放屁癖。ゴメンともいわぬ、という。じだらく、おしゃベり、色気狂い。いよいよ太った腰まわりを包むに、年甲斐もなきパンタロン、人のすなるカツラを我もかぶらんとビリケンあたまに打ちのせて恥ずかしげもなく町をのし歩き、テレビに出て有名人と会ったことを親類中に電話する。男がパンツ一丁で夕涼みすれば子供の教育上わるいと咎め立てするくせに、自分はホットパンツなどはいて気の遠くなるような太ももをひけらかし、どうしようもない大年増、ちょっと夜のご挨拶が間遠になると、それとなくあてこすりいやがらせ、ますます男の気を萎《な》えさせるようなふきげん、わざとらしく戸をピンシャンとあけたてし、男はもう気もそぞろという。  だからカモカのおっちゃんはいつも夢見てるという。  蝶のような軽やかな立ち居ふるまいの、心やさしい女。つつましくしおらしく、ひたすら男を尊敬し愛し、軽蔑なんか以てのほか、男のいうことにそむかじと心を砕き、そしてすることが奥ゆかしい、トイレにもいつ通うかわからぬくらい、食事もごくかるく少なく、金《かね》の|ぐち《ヽヽ》などいわず世帯の切り廻しよく、料理がうまくきれい好き、言葉美しく笑顔さわやか、間隔が十日、半月、ひと月になろうとも、かりそめにもふくれ顔せぬ、いつまでも羞恥心を失わず、老けず、分別くさくならず、しかも清潔ないろけがみちあふれて見るたびに抱きたくなる。 「どッかにそんな女、おりまへんか」 「居たら昇天するわよ、天女くらいのもんでしょ」 「昔はおったんちがうかしらん。少なくとも僕ら、中学生のころに見た女学生はそんなんやった。そんな女に成長しそうなおもかげがあった。なればこそ、僕ら中学生は遠くからあこがれと敬愛のまなざしをこめて仰ぎ見とったんや、仰げば尊し女学生。昔の少年少女は、隔離教育やったなあ」 「そうそう、中学校女学校(旧制)は全然別の学校、通学電車も別、外で男子女子、話をするのも禁止」 「そやさかい、女学生はみな、中学生(昔は中学生といえば男子学生にきまってる)にとっては、永遠の女性、ベアトリーチェやってん。セーラー服の清らかさ、白いネクタイが風になびき、黒髪が吹かれる、スカートのヒダがピーッとしていて、その腰つきもたおやかに、瞳はけだかくりりしく、中学生なんか眼中にないさまで、まっすぐ前向いて、タッタッタッタと歩いてゆく。あのけだかさ。僕ら女学生のスカートのはしにちょっと手ェでもさわれたら、もう死んでもエエくらいに思《おも》てたな。僕、女きょうだいないよって、あの女学生らの日常生活がどないしてもわからん、どんなんやってんやろ、おせいさんかて、女学生やったこと、あるねんやろ?」 「あります、大ありです」 「たとえば、女学生は毎日、何食うてましたか。僕らから見ると毎日、カスミ食うてるとしか思われへんかった。聖母マリアみたいなもん、神聖で上品で、垢《あか》もつかず汗も流さず、汚れを知らぬ清いからだ、無垢の心、まっしろいハンカチみたいなけだかさ。……ああ、あこがれの女学生……」 「エヘン、その実体は、ですね」  と私はいたく悦に入ってしゃべってやった。  たとえば女学生はまず、大食らい。私のときは戦時中ゆえ、女学校一年までしか物資が出まわらなかったが、学校からかえると代用食、オムスビ、せんべい、塩豆、あられ、かき餅、ラムネ、家にあるものは片端からうち食らい、さらに暑いときは、かのたおやかなるべきヒダスカートの中に、古風旧式な黒い扇風機をすっぽり入れて風でふくらませ、太ももから下腹の熱をとる、何しろ陽気のいい時節の黒サージのスカートのむし暑さ、下半身汗にまみれ、股ずれができ、|むれる《ヽヽヽ》もいいとこ。スカートを煽いで臭い風を送ったり。  三人でも寄ればしゃべることしゃべること、カバか野牛のような声で笑い、いずれ劣らぬ臼のような尻とユサユサする巨大な乳房をふり立てて、体操なんぞ徒党をくんでやってると大地が震動する。  ひるやすみ、弁当箱のフタについた飯つぶを舌で舐めてる子もあれば鉛筆の先で妻楊子がわりに歯をせせってる子もある。黒いセルロイドの下敷にあたまのフケをちらして、それをあつめて団子に丸めてる子もある。  セーラー服姿も、遠見《とおみ》には美しいかしらんが近くでみれば衿《えり》はフケでまっしろ、垢でピカピカ、抜け毛が散っている服は、いつも日向《ひなた》くさく埃くさく、叩けばパンパンと陽炎《かげろう》のごとき埃が舞い立つ。白いネクタイの先っちょは、醤油のシミによごれたりし、スカートには|M《エム》(女学生たちはそのかみ、アンネのことをそうよんだ)のシミがついてたりする。  そうして女学校の校舎自体、ムーンと、汗ともワキガとも経血ともつかぬ、一種異様な性的悪臭がたちこめていたもんだ、わかったか。  しかしそういう女学生が一面また、音楽室の中庭で四つ葉のクローバーをさがしたり、講堂の裏手の青桐の幹に「夢多き学び舎《や》を去る日に。K様永遠に」と彫ったり、天使のような声で「春のうららの隅田川……」と歌うのだ。  カモカのおっちゃんの女房《よめはん》だとて本質は同じ。女は昔も今も変らんもんよ。蝶のような女なんてありゃせんのだ。  わが愛の中学生  女学生のことをいったから、今度は中学生のことにしよう。 「六三制野球ばかりが強くなり」という当節の、たよりない、わがままの、甘ったれの、うすらバカのガキどもの新制中学生のことではない。  私のいうのは、戦前、戦中の、中学生のことである。 「少年倶楽部」や佐藤紅緑の小説に出てくる中学生、あのりりしい少年たちである。  私の女学生時代は、戦争たけなわの頃で、もう不良が跳梁《ちようりよう》する自由もなかったと思う。中学生はみな、おそろしくまじめであった。そうして栄養失調の体を、スフ入りの化繊、うんこ色の制服に包み、胸には、校名・学年・名前・血液型を書いたキレをぬいつけ、背中には鉄カブトを垂らし、制帽である戦闘帽をかぶり、スフ入りのゲートルを巻いて、鞄を肩にかけ、毎朝、わきめもふらず登校していた。小型の兵士、という少年たちが町にはいっぱいだった。みな、しっかりしていた。  近所の顔見知りの中学生だといっても挨拶などしては、三年ぐらいウワサのマトになる。まして二人きりで会ってたりしたら、お嫁にもゆけなくなる。兄弟、いとこといえども町なかでは知らぬ顔でゆきすぎる。中学校・女学校、相共に近接しているところなどは、わざわざ、通学路まで別々に規定して、ゆき合わぬようにしてある。  通学電車は、中学生、女学生、別々の車両である。  私たち女学生は、「××中学校」という標札のかかった校門の前を通るのさえ、胸ときめいた。  校門からチラと見える校庭には、銃を肩にした中学生が軍事教練なんかしている。時折、 「オーッ」  と野獣の咆哮《ほうこう》のようなかけ声が、校庭の木々をゆるがしてひびく。それは繊細な女学生を卒倒させるような、性的迫力にみちている。素足で竹刀《しない》をふるってることもある。「男」の世界、「男」の城の神秘感みたいなものが、モヤモヤーっと中学校の校舎に暗雲のごとくたれこめている。  中学生は、女学生なんぞ、洟《はな》もひっかけずにバカにしてるものだと思ってた。女というものは不浄の身で、そばへ寄るさえきたならしいと信じていると思ってた。また女学生は、そう思われても当然と思い、胸をいためていた。  中学校の教育課程は、おおむね女学校より程度がたかく、中学生はみな、女学生よりかしこそうであった。日本の前途を憂え、一刻もはやく戦線に馳せ参じて、大君のために散華《さんげ》せんものと、かたく心にきめているような雄々しい、すがすがしい顔をしていた。私たち女学生はひたすらその崇高さに打たれ、自分たちは中学生たちの気高い心のそばへも寄れぬ卑しい身であると考えていた。中学生たちは寒中でもぱっとはだかになって、|みそぎ《ヽヽヽ》の水をかぶったりする。そうして「みたみわれ、この大みいくさに勝ちぬかん」などと朗誦したりしている。  しかしながら我々女学生は人前で、ふんどし一丁になって裸になったりできない、いかがわしい存在なのである。いろいろかくすべき所も多く、かつ、月に一度の不浄もあったりして、うろんくさい、けがらわしい存在である。皇軍必勝を祈願するため、月に一度、近くの神社に全校あげておまいりするが、そのとき、身にけがれのある女学生は、鳥居をくぐることはできない。神サマのバチがあたる。  たいてい四、五人、鳥居の外でしょぼんと待ってたりする。その羞《は》ずかしさと屈辱感は、消え入りたいようなもので、中学生のけだかさにくらべ、なんという、女学生は取るにも足らぬ身であるかと嘆かれる。勤労奉仕にゆくと、たまに食堂や手洗場で、中学生の一団といっしょになる、もうドキドキしてまっすぐ前を向いて歩けない。手洗場で手がふれたりしたら失神してしまう。「君が手と我が手とふれしたまゆらの心ゆらぎは知らずやありけむ」というような、なまやさしいものではない。子宮の底がやぶけて中身ががらんどうになるような物凄い衝撃。  神サマの次くらいに近よりがたい存在が、中学生なのだ。  中学生というのは、もうなま身の人ではないのだ。遠からず戦場におもむいて玉砕し、軍神となる、そのタマゴであるのだ。我々女学生としてはその後姿を伏し拝みたい心地。イロの恋のという存在ではないのだ。ないのであるが、そばを通っただけで、心ときめきするのは致しかたない。  いがぐりあたまを遠くから見ただけで、へタへタと腰が萎《な》える。  もし話しかけられたりしたらたいへんだと、仏頂面でいるが、ほんとに話しかけられでもしたら、うれしくて、おしッこを|ちびる《ヽヽヽ》かもしれない。絶対、ありえないことではあるが、もし、通学途中、顔なじみになって仲よくなり、ふたこと、みこと、話をする、あるいは顔見合わせてにっこりほほえむ、そんなことになったら、どうしようか、たちどころに死んでも悔いない、などとあれこれ思いはしらせ、つい駅の階段ふみはずして、ずでんどうと落ちたりする。  帽子をまぶかにかぶった、とりわけ眉目りりしい中学生が、いつも一緒の電車に乗っていて、向うも知らん顔でいるし、こっちも知らん顔、それが、防空演習のとき、偶然、駅の近くの防空壕に一しょに入り、ほかに町内の人がいっぱいいたけど、私は緊張と心ときめきで死にそうな気持だった。あの中学生は、どうしたかしらん。特攻隊にでもいって死んだであろうか、それとも辛い戦後をからくも生きのび、泳いで来て、命ながらえ、妻や子とつつがない人生を送っているであろうか。 「そらまァ、私みたいになってんのとちゃいまッか、たいていのトコ」  とカモカのおっちゃんはしごく気楽に、 「女房《よめはん》は抱く気イおこらんけど、若い娘《こ》みて、あれか、これか、体の具合、肌の色つやひとり思いめぐらせてニンまり、体はいうこときかんのに、『気ィ助平』になって、ポルノ小説読みながら酒飲んでる、みな、こんな中年になってます。何となれば、私かて、そのかみ、りりしい中学生やったことがあるのや」  あの中学生が、カモカのおっちゃんになる!? 人生、不可解!  男の長ドス  朝顔の、である。  朝顔に、ではない。  朝顔に、というのは「朝顔につるべ取られて|もらひ《ヽヽヽ》水」という、加賀の千代女の名句である。  しかし朝顔の、というのは「朝顔のそとにこぼすな竿の露」という句である。これは私の伯父の発句《ほつく》である。伯父は若い人をしばらく下宿させていたことがあったが、トイレの床を乱雑に汚す彼らに心をいため、「朝顔のそとにこぼすな竿の露」という句を達筆にしたためて、トイレの壁に貼った。まことに古風で典雅な句である。 「効果ありましたか」 「うんにゃ。近頃の若い者は、朝顔というのが何か、わからんようじゃった」と伯父は残念そうにいった。  この朝顔は、男性用便器のそれであり、女性用のは「きんかくし」というようであるが、その名前がいささか不当で、私などは反対ではないかと思うが、何となく昔からそう呼び慣らわされている。しかし今は、伯父の家の下宿人のごとく、その名称も知らぬ若い人が多いであろう。それは、団地などにある、男女共用の便器になれたせいである。  しかし、私個人にかぎって申せば、男女共用便器というのはきらいである。男性に使用されたくないのである。  もしそれ、女性と同じポーズで使用される場合はよろしい。でも男性特有のポーズで使用される場合は不信感がある。第一、朝顔とちがって何となく男にふさわしくないではないか。  ホテルなどに泊ると、トイレの壁に「御使用方法」などが貼ってあり、腰掛式便器のフタをもちあげて、男性が使用している図が書いてある。  あの絵を見てもわかるが、男性が立って使用するには、腰掛けの位置はいささか低すぎるように思われる。男は何かへっぴり腰になり、たよりなげな、より所なげな、途方にくれたさまに見える。どっちつかずの、自信なげな恰好に見える。私は男の人は、やっぱり、朝顔型の白いタイルの前に踏んばってナニしているほうが、恰幅があって調和していて見やすいように思われる。腰掛式共用便器はその形において、その位置において男にふさわしいものと思えないのである。  その上(伯父の家の下宿人ではないが)腰掛式だと、男が使用した場合、床や便器の縁を汚しはせぬかと懸念がある。さればこそ、伯父も「そとにこぼすな竿の露」と念を押すのである。  私はかねがね男が竿の露のあとしまつをどうしているのか、不信感を抱いていた。  朝顔型便器のそばにトイレットペーパーを置いてあるのを見たことがない。 「イヤ、それは必要おまへん。露のしずくを切ってしまう」とカモカのおっちゃんがいった。 「すっかり切れますか、どうして切るんです」 「ふって切る」 「そのふったしずくはどこへ飛ぶのよ」 「ちゃんと朝顔の中へはいるのです」 「一、二滴ぐらいは外へ散るでしょう?」 「うるさい!」 「そこが問題ナノダ」  ふってしずくを切る、などという杜撰《ずさん》なことがゆるされるものであろうか。天人ともにゆるさざる行為である。どだい男は横着だ、というのだ。どうして竿の先をていねいにペーパーで拭きとらないのであろうか。 「イヤ、その先は、そうビチョビチョにぬれるもんやないねん、サッサッとふったらそれでええようになったあんねん」カモカのおっちゃんは少しイライラしていう。 「しかし、ですね、少なくともそこから液体が奔出するわけでしょ、するとぬれますね、蛇口のあたりは、ふっただけでふり切れるとは思えない。かつまた、そう急速に蒸発するとも思われへん」 「蛇口、蛇口はひっこむ」 「どうやって!? 想像もつかない」 「だまれ、カマトト!」とさしも温厚篤実なカモカのおっちゃんを怒らしてしまった。  まあ、それは不問に付すことにしよう。さらに私の疑問は雲の如く湧きあがるのであるが、男性が小の方の用事をすましてのち、出てきて手を洗ってるのを見たことがない。洗っている人もあるが、それは少ない。 「なぜ洗わないのですか」とカモカのおっちゃんに辞を低くしてきく。 「それは必要ないからです。べつに手は汚れない」 「なるほど。ホースが長いから」 「むしろ、男同士の結論では、事前に洗うべきだということになっている。いまごろ、そんなことをきくほうがおかしい。天下周知の事実です。みんな納得してくれてる筈やないかいな」 「しかし、ですね、物理的に手は汚れないとしても感性的に、何となく汚れたかんじがしないですか? さわるべからざる不浄のものをさわったという……」 「不浄。どこが不浄」 「つまりその、竿が……」 「不浄とは何だ。これは神聖かつ、清潔この上ないもんですぞ、女のそれとはちがう」  今日はカモカのおっちゃん、いたく御不興のてい。  男というものはおおむね、女が向学心熱烈になると、それがお気に召さぬ風情である。微に入り細をうがって問いただすと、あたまにくるらしい。  男は実証精神さかんな女はきらいなのであろう。 「女と男を同等に考えてもらっては困る」 「なるほど」 「女はいろいろとこみ入った事情が内側《ヽヽ》にあり、いわば伏魔殿ですぞ。しかし男は公明正大、天地に恥じない長ドス一本、|さらし《ヽヽヽ》に巻いて……」 「ヨウヨウ、木枯し紋次郎!」 「何が不浄やねん、ほんまに。男の長ドスにさわる女の手の方が不浄やわ」  女の長風呂、男の長ドスか。せめて男は朝顔の外にこぼさないことだけ気をつけて下さい、掃除するのは女やからね。  紫 の 上 「源氏物語」は古来から誨淫《かいいん》の書ということになっていて、士太夫は手にとるさえ、けがらわしいとされてきた。いま読んだら、どこがすごいのかわからない。ただ面白さという点からいうと、これは、すごいばかり面白い小説であるが、それはポルノ的な描写の上になり立つ面白さでなく、男・女・人生を省察した上での面白さなのである。  しかしながらやはり、私は、「源氏物語」を読んでただ一つ、おッそろしくSUKEBEな個所だと思う所がある。  紫の上を、源氏が手に入れるくだりである。  周知のように、源氏は紫の上を童女の頃からひきとって、自分の思うがままの教育をほどこし、理想の女に仕立てあげた。  そうしてそれを妻にする。なんとイヤラシイではないか。  男のSUKEBE精神をこのくらいハッキリ証明してるものはほかにないではないか。 「男はみんな、これ、やりたいんでしょ」とカモカのおっちゃんにただすと、このときばかりは彼は首を横にふり、 「私個人としてはもう、しんどいですな。いま六つ七つの女の子をひきとっても、使いものになる頃には、私は六十代やないか。それまで待てまへん。いまこの時点で即席に役に立つほうがよろしなあ」といいよった。  この男は何でもすぐ、自分の身にあてはめて考え、一般論でしゃべらない。自分のことしか考えとらん。  しかし男全般としてみれば、誰にもそういう欲望はあるのだろうと思う。  それが女にはないよ。  六つ七つの男の子をひきとって思うがままに育て、自分のツバメとして理想的な男にしよう、なんてSUKEBE精神なんか、女はもってない。  尤も、母親が息子にたいして、恋にちかい執着をもつことはよくあるけれども、それは自己の分身としてのもので、ちょいとちがう。息子にたいして自分自身を愛するように愛している。  源氏は、小さな童女の紫の上にたいしても、はじめから異性としての要素をふくんだ愛情をそそいでいる。  そうして少しずつ、少しずつ、恋の手ほどきをして、無垢《むく》な少女の心をたらしこんでゆく。  この世で唯ひとりの保護者と思い少女の心が全的に源氏に向ってひらかれてゆく。父でも兄でもある男に、少女がよりかかってゆくのは当然である。  そうして、まだ女としては成熟していない、性的には深いまどろみからさめきっていない青い果実を、源氏はもぎとり、むりやりに花ひらかせてしまう。  少女はショックのあまり、そのあくる朝、起きてこない。  夜具をひっかぶって出てこない。  拗《す》ねてふくれて食事もせず、モノもいわない。  汗びっしょりになってこもっている。  泣いたりわめいたりするのではないが、彼女は衝撃と傷心でぼんやりしている。  本文は、少女のその美しい可憐な惑乱をさらりと描いて、すごいかんじを出している。  男のほうはこれは平気で、にこにこしたりして、その惑乱を舌なめずりしてたのしんでいる。  ああ、いやらしい。  やっぱり、「源氏」はすごいポルノ小説だ。全篇、ここ一つでもっている。「源氏」を読むときは、ここだけ読めばよい、とはいわないが、ここを読みとばしたらソンするよ。  女のくせに、紫式部という作者は、どうしてこんなにいやらしく書けるんだろう、男心のいやらしさを知ってるんだろう。  ところで、そういうふうに育てあげた理想の女が、変質してはなんにもならない。  女はよく変質する。  家庭という冷蔵庫の中にいれておいても、腐敗変質する。  なぜか。  子供をもつからである。  子供を産んで育ててりゃ、いやが応でも女はイタミが早い。臭気が出てくる。コトワザにもいうではないか。女は臭し、されど母はなお臭し、こんなのではなかったかな。  だからちゃんと紫式部は、理想の女、紫の上に子供を与えていない。  紫の上は、石女《うまずめ》である。  いつまでたっても変質せず、むかしのままに理想の女でいるのである。そこにも作者の周到な注意が見られる。男心のいやらしさをいつまでもそそるようなものを、女主人公は温存しており、それ故に源氏の君の愛を最後まで失わず、愛惜されて死ぬ。  じつにうまい設定ではないか。  もし紫の上に子供ができたら、源氏のいやらしいみだらごころをさそった、かつての少女期のイメージは霧散してしまい、彼女は現実的な存在になってしまう。  現実的な存在になって、なおかつ、みだらごころをさそう、という女は、たいへん、ありにくい。ないではないが、小説にしにくい。「源氏物語」のように一大通俗小説の中では、趣味派と実益派と、女を二つに分けなければ、やりにくい。  たくさんの登場人物であるから、混乱する。紫の上などは「趣味派」の筆頭である。  それにしても、源氏の君のようにたくさんの女を囲って、それぞれの守備範囲をもたせる余裕がある男はよいが、現代ではそうはいかない。  すべて一人の妻でまかなわなければいけないようになっている。  それにいそがしいから、数年もかかって栽培した花を手折るなんて悠長なことはしていられない。カモカのおっちゃんではないが、現在の時点で間に合うのを拉《らつ》してきて、用を足すことになる。  しかし、男はみんな心の底で、紫の上を手に入れた源氏にあこがれているのであるらしい。  そして、その一節を読まんがために、「源氏物語」は千年の愛読書とされ、禁書となり、制止したさかしらな士太夫も、かげでこっそり、読んだのであるらしい。  オヤ&ムスコ  珍しく、カモカのおっちゃんが教育論をぶった。例の「あさま山荘」連合赤軍派のことである。 「罪《つみ》九族に及ぶ、いうのは、古代中国や日本のことかと思《おも》てたら、現代の日本のことなんですな」  そういえば赤軍派の犯人の親たちに、ありとあらゆる非難と恫喝《どうかつ》が加えられた。公金拐帯犯人やふつうの人殺しのときは、親まで公衆《マスコミ》の面前へひきだされて面罵《めんば》されることはあまりないものであるのに、このたびばかりは、一緒に親も世間の懲罰をうけた。  これがけしからん、とカモカのおっちゃんはいう。 「そうやないか。一流作家・評論家まで、あれはオヤがわるい、オヤの責任や、いうとるけど、そいつらのムスコはどや、ちゅうねん」 「それはやはり、一流のムスコたちやから一流の大学を出て一流の勤め人になってんのと、ちがいますか」 「そやろ、そんな奴が、オヤの責任や、いうて責める資格はありません」 「いや、そういう一流のオヤやから、不出来なオヤを責める資格があるのとちがいますか」 「あほ。オヤの責任、教育がわるい、ときめつける資格のあるのは、自分も失敗したオヤだけです。オノレはうまくしてやったと悦に入っといて、他人を責める、そんな傲慢な根性で、作家や、評論家や、いうてデカいツラをするな」  カモカのおっちゃんはそういいつつ、太平楽に酒を飲む。  彼は酒を飲んでいるときだけ、元気である。 「オヤがわるい、いうやつ、自分の方が首をくくる立場になったら、いうて考えたことあるか。作家や評論家が、あないアホで、心が冷たい人種や思いまへなんだ」  シラフであれば、カモカのおっちゃんは、作家や評論家の前で、これだけいう勇気はなかろう。すべて、洒がいわせる放言であれば、一流作家・評論家諸氏よ、大目にみてやって頂きたい。  なお、私は四・五流作家である故に、今回の事件について、マスコミから、さしたるコメントは求められずにすんだ。こういうやるせなくなるような大事件の論評は、私には廻ってこない。私にくるのは、山陽新幹線の試乗とか、夫婦ゲンカのコツとか、あんまり、あたまを使わんでもいいような楽しいのばかりであるから助かる。  だからカモカのおっちゃんの弾劾《だんがい》は、私に対してではあるまい。 「いったい、十六、七から上のムスコが、オヤのいうこと、ききまッか? きかんでしょう?」 「きかないでしょうね」と私。 「なんでもオヤの反対をしよう、しよう、とする。オヤが制止するといきりたち、オヤがけしかけると一歩ひきさがる、という、アマノジャクもええとこ」 「なるほど」 「そらもう、十六、七になったら、オヤとムスコは別の人格、個性やと思わなあかん」 「かもしれないね」 「ムスコがいうこときかんからいうて、いちいち首くくってたら、オヤはいのち何ぼあっても足りまへん」 「ハハア」 「そら小さい時は教育次第かもしれへん。おかしな投書があった、幼稚園の先生が、コドモはこんなに可愛いのに、どうして赤軍派にはいるなんてこわいことになるんでしょう、というとった」  私は笑う。 「小さいときはどんなムスコも、親のいうことようきいて可愛らしいもんです。そんなときは、どんなオヤかて、将来、赤軍派になると思いまッかいな。また、そんな教育する筈ないです。みんなマトモな社会人になれると思う」 「ご尤も」 「それがどこでどうまちごうたか、ヒゲが生え出すとムスコはオヤの手に負えんようになるのです、ヒゲが親子のわかれ道です」 「オー」 「お上・警察のいうことをようきいて、おとなしく従っとれば一生ご安泰やのに、なんの因果か、主義・思想とやらのいうことのほうをきく」 「ムスコにはムスコの主張もいい分もありますからね、仕方ないでしょ」 「さよう、こら、説得してもやめるもんやおまへん。たとえていうなら、お上・警察は古びた女房《よめはん》みたいなもの、主義・思想は若い女みたいなもの」  なんの話や、それは。 「ピチピチ、ムチムチ、した若い女のほうが、ガリガリの根性悪の、こわい古女房よりなんぼええかわからん、ムスコは正直です」  私、無言。ヘンな相槌うつと、どこへ話がとぶかわからない。 「しかしオヤは世間も知り、浮世の義理を考え、いくらイヤでも気にくわぬでも、古女房から、いやちがった、お上・警察からのがれ、逆らえるとは思えん、いやでもムリでも、ムスコを説得し、必死に因果をふくめようとする」  なんだか、ヘンな話のはこび。 「ムスコはどうしてもいいなりにならん、やっぱり若い女を、いやちがった、主義・主張をとろうとする、その気にならへんものは、いくらオドしてもスカしても立たない。これがオヤの責任であろうか、教育の失敗であろうか、宇宙の摂理、自然の輪廻《りんね》ではないか、立たんものは立たんのだ」 「バカ、何いうてんの、話をねじまげなさんな」 「だからオヤはオヤ、ムスコはムスコ、別々の個性です。とめてとまらぬ騎虎の勢い、というものが人間にはあるのだ。オヤがいかにがんばったとて、力及ばぬ時と場合がムスコにはあるのです。それに対する理解と同情のないやつに、文学だ、学問だと弄《もてあそ》ばれては困るんや」 「シッ、大きな声……一流作家・評論家にきこえたらどうすんのよ」  大正フタケタ、昭和ヒトケタあたりの男は困るね。論理的欠陥を、声のボリュームで補おうとするところがあるよ。カモカのおっちゃん、話がこんがらがったときほど、デカイ声で圧倒しようとする。  男は「六|せる《ヽヽ》」  婦人生活社の社長・原田常治氏は商売柄、女、男の習癖に通じていられる愉快なモラリストである。氏がつねづねいわれるのに、男を落ちさせるには(つまり買収、収賄、籠絡、陥落させる手は)五つあるそうだ。  いわく、抱かせる、飲ませる、食わせる、握らせる、いばらせるの五つで、氏はこれを「五せる」とよぶ。  五せるのどれかを組み合せたり、五せる全部で総攻撃したりしたら、落ちない男はないそうである。  このうち「抱かせる」は、わかりそうな気がする。女に弱い男は多いであろう。 「飲ませる」もわかる。 「食わせる」というのはおかしいが、畏友(胃友か?)小松左京氏など見てると、さもありなん、とうなずける。 「先生、明日までに原稿をなんとか……」と山海の珍味で攻撃すれば小松ちゃんのことだ、 「ムシャムシャ……ムムム、何とかする」などということになろう。 「握らせる」も、普遍的弱点であろう。 「いばらせる」というのはちょっと思いつかないが、男の平均的弱点であるにちがいなく、人によってはこの上にまた、「反対させる」「いやがらせさせる」「どならせる」などとあろうし、もしそれ、わが大先輩野坂昭如センセイならば、「からませる」などいかがであろうか、|五せる《ヽヽヽ》に加えて、この|六せる《ヽヽヽ》で攻めれば畢竟《ひつきよう》、彼とて人の子、メロメロに落ちるのではあるまいかね。  ところで私が思うに、男の通常的特質として「教えたがる」というのがあると思う、よって男を籠絡せんとせば、この特質を逆用して「教えさせる」という、これぞ「六せる」ではあるまいかと思うのだ。  いったい男というものは、(カモカのおっちゃんをみてもわかるが)自分で知らないものはないように思っている。何かというと、 「イヤ、それはそんなもんやない」  とか、 「うんにゃ。そうにきまってます」  とか、重々しく断定する。  説教というのではないが、教わるのがきらいで、教えるのが大好き。  そうして少しばかりの知識を勿体ぶって重々しく披露し、あるいは教えしぶり、あるいは指示教導し、仰げば尊しわが師の恩、と、未経験者に尊敬のまなざしでみつめられるのが大好き。  私、思うに特に男というものは、セクシュアルな事柄に関して、女に教えるのが好きなようである。  男が男に、つまり先輩が後輩に教えるのはこれはふつうのことだが、男が女に教える、そのたのしみがこたえられない、というのが大方の男の特性ではなかろうか。  男が処女を好むのもそれと関係があるのかもしれない。処女はもの知らずだから。  処女にかぎらない。性の道は奥ゆき深いから、教え教えられることは無限にある。人間だって最初はセキレイに教えられたのだ。ところが古川柳によると、「セキレイも一度教えて呆れはて」というほど、人間は切磋琢磨、たちまち出藍のほまれの名をあげることになる。  太古からいかに男が知ったかぶりして女に教えてきたかと思うとほほえましい。しかしまあ、それだから安定感があるので、これが反対だったら、ずいぶん、みっともないことだろうと思う。 「心配せんでもエエて——な、痛いことないさかい」  などと男が、そめそめと女の耳にいい、女は羞ずかしさと不安と何とはない悲しみやら怒りやらで、ぷんとして横を向いて返事もしない、さればといって逃げ出すでもなく、わめき立てるでもなく、うすい冷や汗なんかじっとりと額ににじませて上気して頬が桃色になっている、などというのは、ちゃんと型にはまってよいが、 「大丈夫よ、あたしに任しときなさい」  などと、女にくどかれている男は、どうもぱっとせず、もひとつ、しまらない。  それが若い男と中年女ならまだしも、たとえばカモカのおっちゃんなどが若い女にささやかれている図なぞは、|けったい《ヽヽヽヽ》を通りこしてうす気味わるい、やっぱりこれは、重々しく、 「いやいや、そうやるのではない、もっとこう……そうです、そうそう、それから、こうやって」  などとカモカのおっちゃんが教えるほうがぴったりくるようである。  しかし、男というものは、相手が未経験者であってもなくても「教えたがリン」なのだ。どういう根拠でそう信じてるのかしらんが、女より男のほうがもの知りで、性に関しては練達者であると思いこんでいる。だから気の利いた女は男に気に入られようとすると、カマトトにならざるをえない。  そうして、男に「教えさせる」たのしみを与え、こっちの思うつぼにはめてゆくことになる。  だけど、知ってて知らないふりをするのも辛いよ、これは。  非処女が処女のごとく装いふるまうのは、これはこの際はぶく。こういうふうなのは全くの詐欺であって、いうなら破廉恥罪、七つの大罪のうち、ウソツキの罪である。これは男と女のいろごとのかけひきの遊びからいうと邪道で、マヤカシ、ニセモノ、イカサマの臭味があり、淑女のとるべき道ではない。男は紳士らしく、女は淑女らしくふるまうのが、いろごとの楽しみの奥義だ。  私のいうのは双方、一人前のオトナとしてである。  オトナの淑女ならば、〈ヘタクソ。もうちょっと何とかならないものかしら〉などと思っても、そんなことはけぶりにも出さない。あるいはホテル・モーテルの設備に通じていて、どのボタンを押せばベッドが動くとか、どの紐をひっぱればカーテンがあがって鏡が現われるとか知悉《ちしつ》していてもおくびにも出さない。  そうして男が、心得顔に得意満面でやってみせると、ビックリして身も世もなく、 「あら」と恥ずかしがってみせたりする。  この頃はこういう風になってんのだ、驚いたろう。まだまだ驚くことがあるよ。まあ、ほんとによくご存じね、と女は恩師を仰いで殊更、尊敬のまなざしでみつめる。生徒もいろいろと辛いよ。苦労するんだ。  処  女  男性に処女願望というのがあるそうだが、これなど女から見て、どうにもわからぬことの一つである。  人によると、最初の記憶はまた、最後まで消えない記憶であるといい、その女の生涯に消しがたい烙印《らくいん》を捺《お》した如く考えて、悦に入る向きもあるようであるが、ほんとに男って、バッカじゃなかろうか。女は誰も、そんなもん、おぼえとらへんよ、気の毒だけど。  だんだんよくなる法華の太鼓、あとほど記憶が鮮明で、しかも女はそのこと自体より、その上に積み重なる人生の重みの方が意味が大きいから、「最初の記憶」なんて、「人生の重み」の前には吹っ飛んじゃいますよ。  つまり子供のしつけとか、亭主の出世とかのほうが、そして長いあいだの反復的夫婦関係のほうが女の心身を色濃くそめてゆき、「最初の記憶」なんてシミはムラなく消えて、ひといろに染め上げられるのだ、わかったか。  心得ちがいの女がいて、非処女を処女のごとく見せかけ、男の錯誤の上に立った征服意欲をそそって金を絞るのは勝手であるが、まあ本質はそんなもんで、あんまり処女に大きな意味を与えるのは見当はずれである。  しかしそれだからといって、無恥・無智した若い女が、「初体験はいくつのとき、相手は……」というのも、まことに白けたもので、こういう女の子を育てたわれらオトナ全部が、総括されねばならない。  処女に大きな意味はない、といったって、人前で、ハシカを患ったときの報告するみたいにいうものではない、このバカモン。すべてベルトから下のことは、他人や世間さまにはワイワイガヤガヤいわせておき、自分は何もしゃべらないのが、よくできた人間というものである。  だからポルノだって何だって解禁してもっと性的情報を氾濫させ、社会全体をピンクに染め上げて茹《う》だらせればよいのだ。そういう中で、自身だけは一切、そのたぐいのことを口にせず、秘めごとをあかさず、といって情知らずでなく、ワケ知り顔にうまく泳いでる。ことに女というものはそうありたいもので、ほんとにものごとの道理も知らない奴らに|おんな《ヽヽヽ》顔をされてのさばり返られては、こちとら四十まで、おんな商売張ってきた大姐御として片腹いたいよ。  このごろはさすがに、処女にかぎります、なんてあからさまにアンケートに答える花嫁募集の若い男は少ないようだが、もし今でもそう信じてる男がいるとしたら、これもわれわれオトナの教育がわるいと思う。  そもそも女を二十代前半で結婚させるなんて、私からみると無茶だと思う。ほんというと三十くらいの、千軍万馬のツワモノになってから、結婚するのが男も女も失敗の率が少なくまた、人生をたのしめていいのであるが、それでは子供が遅くなるというおもんぱかりで、結婚するのである。いまの結婚は便宜主義が多い。そんな結婚観が横行している現代では、まだ処女崇拝の幻影は追い払えない。  私なんか、処女のなれの果てを、もうイヤというほど見てきたのである。私は十七歳のとき終戦になり、娘ざかりのころは戦後の混乱期であった。復員兵がどっと氾濫して、クラスメートの大半は、うまく彼らを拿捕《だほ》して結婚したが、中にしそこねたのが居り、それらはついにそのまま、現在まで独身で働いている。  そりゃそうだろう。おびただしい数の男が戦死、爆死、病死したのだ。数がゆきわたらないのは当然で、椅子とり遊びではないが、誰かがあぶれて、立ったままウロウロしてるのが出るのだ。これは個人の罪でなく、政府と国家権力の罪である。  その中で、いかにも女らしく情知らずでなく、崩れもせず、きれいに生きてる独身の女も多いが、中には戦前、教えられたままに、処女をヒシと守ってそれをひそかな恃《たの》みとしている女も、少なくないのである。もうそろそろ五十に手のとどこうという年ごろで、それでも処女は処女なのである。全国には、昔の「古事記」に出てくる「赤猪子《あかいこ》」みたいな老処女がゴマンといるのだ。  赤猪子は、美しい少女だった。あるとき天皇が野辺で彼女を見|初《そ》め、必ず召すから待っているようにといった。赤猪子は愛の約束を守って八十年、今は老いさらばえたけれども、「おのが志を顕《あらわ》し白《まお》さむ」と思ってみやげものをもって(ここが泣かせる)腰かがまって天皇のところへいく。天皇はビックリする。気の毒がったけれども「其のいたく老いぬるに憚《はば》かり」歌をやってかえしてしまう。赤猪子は「身の盛りびと」若い女をうらやましく思い、その泣く涙は、着ていた着物の袖もしぼるばかりであった。  旧友の老処女をみると私は何ともいえぬ気がする。処女をやたらと捨てたがるのも阿呆だが、守りたがるのも阿呆、女の子の教育はあげて、このかねあいのコツをおぼえさせる、それだけの賢さを身につけてやることに尽きよう。  例によって例のごとく、カモカのおっちゃんに、処女を好むかどうか、きいてみる。なお念のためいうておくが、カモカのおっちゃんは亭主その人ではありません。ウチの亭主は朝丘雪路におけるかつての伏谷センセイのごとく、女房《よめはん》はキャッキャッと外で遊んでいても、ひたすら家を守り子を育て、黙々と医学の研究にいそしみ、孜々《しし》とゴルフの研鑚《けんさん》にはげんでいる朴念仁、いやちがった、結構人なのでありますよ。  カモカのおっちゃんはこれは酒飲んで駄ぼら吹いてるだけの(少なくとも私の前では)中年男で、亭主とは比べものになりません。 「まァ処女は、かんにんしてほしいですな」  と案に相違の、カモカのおっちゃんの話。 「この年では、しんどいんですワ。何や文句ばっかりいうて、いざコトにとりかかると痛いのヘチマのと、あばれてずり上り、トドあたまが床の間までせり上って大そうどう、イヤモウ、すンなり、素直におさまる方がなんぼラクか知れまへん、処女は願い下げ」  なんの話か、私には、よくわからぬ。  ところで私は実のところ「処女」なんてコトバからしてきらいなのである。民放ならいざしらずNHKの堅物《かたぶつ》アナウンサーまで大きな声で「処女航海に出ました」「処女雪がふりました」「処女出版しました」なんておくめんもなくいってるのきくと、恥ずかしくて消え入りたい。いう方は何ともないのかしら。  女は「五|たい《ヽヽ》」  ところで原田常治オジサマは男の「五せる」に対し、女は「五たい」であると喝破していられる。いわく、   着たい   食べたい   しゃべりたい   甘えたい   産みたい  だそうで、女はおおむね社会的利用度が少ないから、何々させて籠絡するという観点ではなく、女の本然の性《さが》そのものをいうようである。 「甘えたい」というのを即物的にいうと「抱かれたい」と表現してもよいであろう。  美しい着物を着、人にみせびらかし、おいしいものを食べ、心ゆくまでしゃべり、好きな男に抱かれ、子供を産んで「お手柄」とチヤホヤほめそやされ、その子供をおおっぴらに育て、可愛がられる、まことにこれぞ、女の法悦境であろう。 「甘えたい」という女の性は、小さいときは両親に甘え、結婚して男に甘え、老いて子に甘えるを以て究極とする。それらがみたされたとき、女の幸福は極まったものというべきであろう。  全くのところ、女の本態は、この「五たい」に尽きると思われる。私だって、この上に「六たい」めをつけ加える言葉が見当らぬのである。  ところが、私がこれを示して、意見を徴した若いミス・ミセスからは憤然たる反駁があった。  そんな「五たい」は古典的すぎるというのである。  そんな次元の低い「五たい」が女の本態だと思われては片腹いたいという。  では現代の「五たい」は何々か。いわく、   家事を省きたい   外で働きたい   生き甲斐を感じたい   自分名義の財産をもちたい   抱かれるより抱きたい  だという。  えらいことになってきた。こんな「五たい」をふりまわされては、男もウカウカと枕を高くして眠ることはできなくなってきた。牙城に迫られたわけである。  この|五たい《ヽヽヽ》はいずれも現代女性の不満のありどこを象徴しているものと思われるから、まことに尤もであるが、尤もであるとうなずけるものの、私は心から承服しかねるのである。  この新|五たい《ヽヽヽ》がみたされても、なお女には埋めて埋めつくされぬ空洞が残るであろう。その空洞を埋めるのは、やはり古典|五たい《ヽヽヽ》ではあるまいか。新|五たい《ヽヽヽ》は何となくメッキでまやかしの感じがあり、いうなら流行である。時代によって変りそうな尻軽さがある。しかし古典|五たい《ヽヽヽ》の方は、これは東西ニホドコシテ悖《モト》ラズ、古今ニ通ジテアヤマラズ、という万古不易の女の性のエッセンスみたいなものに、私は思える。女の性に関するかぎり、私は保守反動である。  しかしながら私が保守反動とするならば、カモカのおっちゃんなどはどういえばよろしかろう? おっちゃんは、新も古典も興味ない、という。着たい、食べたい、しゃべりたい、も、そんなもんが、なんぼのもんじゃ、という。どういうことや、それは。 「つまりですな、まァ何をさせてやっても女ちゅうもんは、本心から、あんまりこたえとらんからですワ」とおっちゃんは、憮然《ぶぜん》としていう。 「着たいものを着せ、食いたいもんを食わせ、口から出放題にしゃべらせ、産みたけりゃ産ませ、けったくそわるいのをがまんして甘えさせ、それで要するに、こっちは何のトクにもなっとらへん」 「しかしですね、女はそれで幸せなんですから……」 「男のほうは、これはわかりまっせ、|五せる《ヽヽヽ》でオトしたら、注文廻してもらえるとか、査定に手心してもらえるとか、まァこちとらに見返りがおますわな、しかし女に、したい放題させたって何の見返りがあるか、ちゅうねん」 「それはやはり……」と私はひるんだが、われながら気がさすのをあえていった。「そんなにしてもらったら、有難く思って男を大事にします」 「いうてる本人が信じてないくらいやから、誰がそんなことするかいな、あほらし。よけい図々しなって、トメドが無《の》うなるのが女というものです。着たいもん着せてももっともっと着せろという。食いたいもん食わせると、もっとうまいもん食わせろという。精神的歯止めがおまへん、ケロッとしてる」 「そうかなァ」 「そうです。しかも、ですね」とカモカのおっちゃんは盃を置き、「いちばん、それを痛感するのは、あのときです。つまり男は獅子奮迅、汗かいてがんばりますわな」 「ハァ」 「女のほうも相応に夢中です」 「なるほど」 「それが、すんだらすぐ、本心に立ち戻り、真人間になって、ケロリとマトモな顔になりよる」 「それは……」 「ケロッとして鼻唄なんか唄うて、汚れものを風呂場の洗濯機に抛《ほう》りこんで、台所で新聞なんぞ、読んでけつかる」 「あの、それはですね……」 「颱風一過のかんじ。あない汗かいて大サービスしたん、ちっともこたえとらへん、いうのや」 「しかし……」 「ケロッとして、これがさっき、あない取り乱しとった人間と同じ人かしらんと、目ェこするかんじ」 「でも、その……」 「あまりにも、こたえなさすぎるやないか。蛙のツラにションベンもええとこです。女はケロリ族なのだ。あまりにも性根に入らなさすぎるやないか。こんな動物に|五たい《ヽヽヽ》のなんのと|し放題《ヽヽヽ》させといたらキリがおまへん」  おそれいりました。  身内とエッチ  このあいだ、お袋に叱られてしまった。  お袋は私の書くものは読んだことはないが、このところかかってくる電話をきいていると、ほとんどみな先方さんが、 「週刊文春のを読ませてもらっています。へへ、エヘヘヘ……」と笑うそうである。  その笑い方に共通のニュアンスがあるそうである。  おかしい!? とお袋は思ったそうだ。そのへんが女の第六感である。  また具合のわるいことに「週刊文春」発送係氏が数週分、お袋のいる尼崎の自宅に送っていた。  私は具合のわるいのはみんな、神戸の自宅に送ってもらうことにしているのだが、何思いけん、私の手許に届けないでお袋の手許に掲載誌を届けてしまったのだ。  お袋はいそぎ「女の長風呂」を読み、ブワーッと青い汗、赤い汗が噴き出してきたという。青い汗は恥ずかしさで、赤い汗は怒りである。お袋は電話でどなりこんできた。  何という品のわるい下賤なものを書くのだ、何というエッチ、何という変態、女の変態はどうもならんではないか、これを読んで世間さまは呆れはてて嗤《わら》っていられるのだ、もう外へ出歩けない。恥ずかしくて恥ずかしくてご先祖さまにも貼り絵のお弟子さんにも合わせる顔がない、どうしてくれる。  どうしてくれるといわれたって、どうしようもないのだ、こっちは。 「そうかなァ。そんなに品がわるかったかなァ」 「あたり前ですよ、あたしゃそんなエッチに育てたおぼえはない。つきあう友達がわるいんです」 (私はカモカのおっちゃんをチラリと思い浮かべた) 「ウン、それはあるかもしれないよ」 「何にしてもすぐ、止めさしてもらいなさい。止めなければ、あたしゃ文藝春秋の社長さんに直訴します」  私はいたく煩悶《はんもん》した。せっかくの注文にこたえるのは仕事にたいする忠である。忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず。  進退|谷《きわ》まった私にできることは、今後、お袋の目にふれさせないよう配慮することだけである。お袋は買ってまで読まないであろう。  ホカの人ならこのご時勢だ、なんぼ書いても仕方ないという。しかしお袋にしてみれば|ワガ《ヽヽ》肉親に書かれるのは、身も世もあらぬ気になるのであろう。身内というのはもう、こういうときどうしようもなく始末に困る存在である。  身内とエッチ、というと語呂合せになるが、身内のエッチトラブルはどうも堪えがたいのはなぜであろうか。  おとっつぁん、おっかさんの色狂いなんてのもやりきれないであろうし、兄弟・わが子が婦女暴行なんぞであげられたりしたら、私なンか恥ずかしくてようひき取りにもいかん。世間様に対して恥ずかしいんじゃなく、本人に面と向ってどっち見てたらいいのか、視線のやりばに困っちまう。  家庭、肉親というものは、ほんとうは、性を基盤にしてでき上っているものなのに、いざでき上ってみると、一切の性的なものは排除されてしまう、そこがふしぎである。  だから家庭で性教育なんて、すべきかもしれないけど私はおっくうである。  子供が見てるじゃありませんか、子供にきこえますよ、何です、子供の前で、などといってるほうが少なくとも私の場合、自然である。  そんな本読んじゃいけない、映画館の前は目をつぶって走りなさい、深夜テレビは見ちゃいけません、なんて子供にいうほうも自然である。性教育なんてどうやったらいいか考えてるだけであたまが禿《は》げる。家庭の中から一切の性的なものを排除してるほうが、気楽は気楽である。  尤も世の中には、近親相姦なんてあって、肉親同士で恋愛関係に耽《ふけ》ったりするのがあるけれど、私ごとき凡婦にはどう考えても解《げ》せぬ。  だいたい、亭主でさえ私には男とみとめにくい。  世の大方の男が、「女房なんて女やおまへんよ」といわれるのと同じく、私も亭主は男やおまへんよ、といいたい。何年もいっしょに住んでると、これはもう異性というより身内の色が濃い。  兄弟なんてシロモノは、これは洟《はな》をたらしたガキの頃から見てるから、いくら名刺に部長の課長のと刷りこんでも、男と思えぬ。義弟たちだってたまたま男の恰好してるだけだ。中ではわずかにカモカのおっちゃんが男の片鱗をとどめているが、それはやはり他人だからであろう。  まあ何にしても、家庭なんちゅうところは色恋、性的関心から見放されたようなものだ。  身内に対してエッチなことをしかけるなんて、想像もつかない。  かつまた、身内のだれかれが、ヨソのだれかれに向って、エッチなことをしかけてるなんて、想像もしたくない。  ゆえに、家庭の中で見てる身内というのは、一部しか理解していないのである。その人間の全面を把握できないからである。しかしそれにしても、身内がエッチなことをするとは信じたくない。  もと異性で、いま身内になってしまった夫と妻は、すこしニュアンスがちがうが、しかしいったん身内になってしまった夫が、よそへいって異性に対して男性としてふるまえる、つまりエッチになれるとは信じられないのである。  亭主たちはそれに対し、「見くびったらあかんぞ。こう見えても男は男なんや」とすごんでいるが、日常|坐臥《ざが》、亭主のあらゆる下らない姿態、嗜好、性癖を見なれた女房たちには、エッチなことが今さらできるとは信じがたい。  そもそも、エッチというのは、一種、人を眩惑させる気魄のことをいうのだ。アッ、エッチ! と一瞬ドキリとさせる、そういう殺気が流れないとエッチにならないのだ。見なれ、肌なれた男がなんでエッチでありえようか。  それを押して挑みかかる近親相姦なんて、ほんとうに壮観ですねえ。  青 大 将  身内にエッチなことをするはずがあり得ないといってたら、いや、それはそんなもんでもおまへん、と反論した知人の男性がいた。  彼は五十歳、一、二年前に奥さんを亡くしている。十七歳の娘がいる。あるとき、入浴していた娘が、突如、キャーッと悲鳴をあげて風呂場から飛び出してきて、父親の胸にしがみついた。  もちろん、ぬれたままの素ッぱだかである。ゴキブリが飛んできたという。よっぽどこわかったとみえて、父親にしがみついて泣き出し、自分がどんな恰好してるか忘れてしまったらしい。  父親はあわててバスタオルでくるんでやった。くるんでやったけれども、 「いやどうも、妙な話ですが、一瞬、ドキン! としました。そうしてそのドキン、の中には、考えてみると、むらむらとくるものがありましたな」 「そのむらむらは、ハッキリいって性的欲望に類似していますか」と私は念をおしてきいた。 「そらまァ、その一種のむらむらです。いやもちろん、相手は娘ですから行動にうつすはずはありませんが」と衝撃の告白をしている。  私はマサカと思った。彼は某会社の重役である。いや、重役であることとマサカということとは別に関係ないが、思慮分別ある良識人が、いかに何でも娘を抱いてむらむらとくるなんて信じられない。  私は早速、べつの人にきいてみた。こっちは六十歳ぐらいの、人格高潔、温和で篤実で信頼すべき人となりの男性である。  彼はしばし、いいにくそうにためらったのち、 「それはあることです」と白状した。「私自身、そういう経験はしたことはありませんが、想像してみて、あり得ることだといえますな。娘にだってふいっとそういう欲望がきざすことがないとはいえません」  この年齢、この人格の人が認めたからには私も納得せざるを得ない。世の中には私のようなもの知らずの、思いも及ばぬことが多々あるのだ。 「しかし私は考えられまへんな」というのは、カモカのおっちゃん一人である。「ウチにも娘がおりますが、もう早う出ていってほしいばっかり。適当な出モノ見つけて早うくっついてほしい、いわんやこっちがムラムラと欲念きざす、なんてことはマカリまちごうてもないです」 「それは何でですか、よっぽどできのわるい娘とちがいますか」と私。 「いや、中学高校とおりますがワリにいける十人並みの娘ですが、女の子も小学生までですな、可愛らしいのは。あとは気色《きしよく》わるいだけ」 「気色わるいとは」 「そやがな、娘がオトナになっていくいやらしさ、いうたらまたべつでっせ。ベタベタ甘えられたりしたら、ゾーッと鳥肌たつ」 「おっちゃん変ってるのとちがうかな。だって男親は、女の子が娘らしく色気づいてくるのがたのしいもんとちがいますか」 「イヤ、私はそうは思いまへんな。とくに初潮があったと女房《よめはん》に耳打ちされたりしたときのいやらしさかげん、まことに以てかなわんですな」 「そうかなァ」 「まだ骨もやわらこうて、パパ、パパいうて首に手ェ廻したり、膝へ乗ったりする頃だけです、天使みたいに綺麗で可愛らしいのは。年頃になると何や、ムーとなまぐさい感じ、青大将がトグロ巻いてるみたいで家中、女臭|芬々《ふんぷん》と動物園みたいな臭いがします」 「しかし、娘さんが結婚するときは、やっぱり惜しいと思いはんのとちゃう?」 「いや、せいせいするやろなァ」 「男親って、娘が新婚旅行に出たら、花婿がどうぞ交通事故で死んでくれへんか、と思うそうですよ」 「全然、わかりまへんな、そんな気持。青大将をひきとってくれる飼主がおったらよろこんで進呈です」 「やっぱり変ってるで」  私は、カモカのおっちゃんは少し異常ではないかと思う。だって世の男はみんな娘を溺愛しているからだ。 「イヤそら、可愛がるのと気色わるいのとはちがいます。可愛いけど気色わるいのはどうしようもない。性を異にすると互いに反撥するのが当然ですわな。娘の尻にくっついて新婚旅行にいきたいとか、いつまでも手放しとうないとか、そういう人の気が知れまへん、父親と娘は愛情があっても気味わるがるのが当然です。おせいさんはどうでしたか」  そういわれれば、私も、女子専門学校に入ったころ、十六、七のころは父親は好きだったけれども気色わるい存在になっていた。  とくに父親と何かの話をしていて、父親が、 「あの本には生殖《ヽヽ》の話がのっているから学校の教科書には使わないだろう」  といったので、大きらいになり、こういう奴は死んでしまえと思った。  そのころは「生殖」などという言葉にさえ、かほどに強烈にアレルギーをおこしていたものである。現在とは隔世の感がある。  父親がどんな本の話をしていたか、おぼえていないので、この言葉だけとりあげると珍妙な会話であるが、私はその内容より、そのときのショックを三十年近くたってもおぼえているわけである。  してみると、カモカのおっちゃんのいうことは正しいのかもしれない。世の大方の男親が娘に執着するのが異常で、おっちゃんのように気色わるがるほうがノーマルかもしれない。見直した。 「年頃の娘が青大将みたいなんて、おっちゃんの感受性も、あんがい純粋で鋭敏なんかもしれへんよ」とほめたら図にのり、 「イヤしかし、娘の友達はちがいまっせ、娘の友達は高校生でも中学生でも色めきたちますな。ポッと胸のところがふくらんだりして脚はすんなりと、じつによろしなァ、十六、七というのは」  といいよった。あほ、やっぱりタダの男やないか。安心した。  情を通じ……  巷間、女たちのあいだに「情を通じ……」というコトバが、いまはやってる。  いうまでもなく、沖縄密約|漏洩《ろうえい》事件の起訴状の中にある文句である。  この事件もヘンな事件で、どだい根本は政府がきたないことをするからなのだ。機密漏洩もへったくれもあるもんか。  しかも、起訴状に「ひそかに情を通じ……」とあるのも余計なことである。情を通じようと通じまいと、その相手が合法的関係の人間であろうとなかろうと、ヒトの勝手、家庭の事情でありますよ。機密漏洩とこじつけるのは、地検の陰謀であろう。  情を通じ、という日本語もよろしくない。大体、厳粛なるべき検察用語が得てして、卑近なワイセツ語になるのはどういう皮肉であるか、検察関係諸賢はもっと日頃から、たとえば梶山季之先生の「いろはにほへと」などの名文にしたしみ、優雅なるワイセツ語の探求に心せられたい。  情を通じる、なんて言葉をきくと、私などには、お通じを連想させられてこまっちゃう。尤も、同じ|通じ《ヽヽ》でも、情を通ずるのと「お通じ」では、それぞれ専攻分野がちがうようであるが。  それにしても、横グルマ代議士がいちばんよろしくない。尤も元兇は政府ではあるが、あの代議士センセイが、ああまでオッチョコチョイでなければ、何とか恰好はついたはず。見サンが、かわいそう。  あんまり男を信じすぎると、こうなるのだ。男はイザとなると、女との約束なんか、仕事、功名、面子《メンツ》の前には弊履《へいり》の如く打ちすててかえりみない、不徳義な動物であるのだ。男は信ずるに足らない。西山フトキチ記者はふてえ野郎ではないか。あくまで見サンを守るのが、騎士道というものではないかしらん。  オール女性諸嬢に告ぐ。  今後、新聞記者と「情を通ずる」のは、女として心すべきことにこそ。  私が口角泡をとばして論難しているのをきいていた、ある妙齢のお嬢さん、感に堪えぬごとく、私の言葉をさえぎって、 「でもあの、これ……四十歳と四十一歳のひとたちでしょ」  そうです、それがどうかしましたかね。 「そんなトシの人でも『情を通じ』たりするんですか、フーン……」なんていう。  またしばらくして、少し顔うち赤らめ、 「フーン、四十の人でも、ねえ……」なんていう。  あたり前でしょ。四十になった人間はみな、おしとねすべり、お寝間ご辞退するとでも思うてるんやろうか。  しかし考えてみると、私だって若かりし頃はそうであった。女学生時代は殊にそう。  四十にもなった男女が、情を通じたりするなんてことは到底、信ずることができなかったのだ。そんな関係は、せいぜい二十二、三までの未婚の青年子女の間にのみ存在するように思っていた。いかに若い頃といっても、思えばじつに苛酷で世間知らずな偏見であった。  まして五十六十の男女がむつみあうなんてことは夢にも想像できない。  若い私には、情を通じるなどというような、軽佻浮薄、あさましい、みだらがましき事がらは、思慮分別そなわったオトナにはあるまじきことのように思っていた。  人間は、四十にもなると、「不惑」のことば通り、心境、水のごとく澄みわたり、かりそめにも色の恋のということには心動かされず、いやらしい煩悩《ぼんのう》から解脱《げだつ》し、志操高潔、貞操堅固、仙人か隠者かというような存在であると思っていた。  男と女が結婚しても、かりそめにも手をふれ合うことなく、分を守って身をつつしみ、仲よく礼儀ただしく生活するもんだと思っていた。 「ほんならなんで子供ができるねん、それはどない考えてたのですか」とカモカのおっちゃんがきく。 「そうですね、それは偶然、ある日ポコッとおナカにできるように思うてたんでしょ」 「|デンボ《ヽヽヽ》やあるまいし、ええかげんにせえ」とおっちゃんはいったがすぐ、 「いや、そういえば、ぼくかて、子供のころは学校の先生いうもんは、情を通じたりせえへんもんや、と思うてましたな。——みんなええ年した、中年に見えてね」 「そうです、そうです、今から考えると、先生はあんがい若かったんかもしれへんけど、そのころはみな、思慮分別ある年輩に見えました」 「ことに昔の女の先生は、ハカマを胸高にはいて紐をきりりとしめ、いかにもけだかい感じ。そんな中年の女の先生が、男に抱かれてるなんぞは想像もつきまへなんだ」 「それは男のほうもでしょ、中年の男が女にたわむれてるなんて、どないしても考えられへんかった。これは、どうかすると、今でもその偏見の名残りがありますね、中年の、かしこそうな、シッカリした男を見ると、女と情を通ずるなどとは、いかにも思いがたい。その点では、『四十の人でもか、フーン』という、お嬢さんと同程度であるデス」 「イヤ、それはちがう」  とカモカのおっちゃんはさえぎり、「男はよろしねん、中年、老年になっても、いくつになっても女を抱いててサマになる。しかし、われわれ男から見て、分別そなわった中年の女が、男に抱かれてるなんて、これは想像もできんのですな。考えただけでも当惑してしまう。男としては『四十の女でもか、フーン』という感じ。さしあたり、おせいさんなんぞ、こっちから見てそう思える。中年の女はおしとねすべりせよ、というのはしごく妥当な意見やと思いますな」  私は柳眉(でもないか)を逆立てた。 「失礼ね、こう見えても酒を飲んだら、やらせろやらせろという男の子の一人二人はいますよ」 「それは酒席の座興、男のお愛想というものです。四十のゾロ目になってる女にそんなこと本気でいう男があろうとも思われぬ」  とカモカのおっちゃんはなおも語りつづけたが、私の形相を見て話をかえ、 「しかし何です、例の起訴状は、四十でも情を通ずるもんだと若い者に啓蒙した点で、まことに意義がありました」  バカ。  初  潮  キリストというのは、時にいやなことをいう人である。 「汝《なんじ》らパリサイびとよ、汝らは白塗れる墓窟《はかあな》のごとし、外は美しく飾れども内は汚辱にみつるなり」  私は、これは、アンネのときの女のことを、あてこすって、いうてはるのだと思う。それはヒガミだといわれればそうかもしれないが、いつもここを読むとき、何か落ちつきがわるい。きっと、キリストの皮肉だと思う。しかし全くその通りで、残念ながら認めざるをえない。  そして女は、「白塗れる」外の美しさを書くことはできるけれども、「墓窟のごと」き内の汚辱を書くことはできない。  いつか、私に、小説の注文がきたとき、 「こんどは何書こうかな」とつぶやいてたら、 「アンネのことは小説になりまへんか」と助言した編集者がいた。  そんなことが書けますか、夏の暑い日はむれてすごい異臭を発して、犬が鼻を鳴らしてどこまでもついてくるとか、現在市販されている生理帯《バンド》はみんなどこかが不備で、人によって前へずれたり後へずれたりして、万人ひとしく困っているけど、国会へもち出して論議するわけにはいかないとか、バンドは薬局に売っており、婦人が店番してたらいいと思うときにかぎって男の店員がいるとか、男のバンドは、現今はベルトといい、これは洋品店に売っているとか、そういうたぐいのことは、いやしくも淑女たる私には書けない。  まして昔は脱脂綿で、これはすぐぼとぼとになって困ったけど、今のアンネならびにその類似品は女性史上、画期的な発明であるとか、そういうことは私が書くわけにはまいらない。どうしてそういう「汚辱にみつる」内側が小説になり得ようか。  ただ、私がこの際、うたた感慨に堪えないのは、現代っ子かたぎの変遷である。  図表にするとこうなる。  私。昭和三年生まれ。はじめてのアンネは女学校二年生。〈感想〉ゆううつ。一生涯、毎月こんなにじゃまくさいことがあると思うと、目の前がまっくらになった。  妹。昭和六年生まれ。女学校三年のとき。オイオイ泣いてた。 「やっぱり、オトナになったと思うのが、淋しくて悲しかったんやないかしらん」と、オトナになってから妹は注釈している。  私の知ってる女の子。昭和三十二年生まれ。小学六年のとき。 「やったァ」と舌を出した。「うん、知ってるよ、クラスの子もう、たくさんあるもん。ね、私のあれ、どこ。用意してあるんでしょ。でもいややな。おとうちゃんにいうたら、あかんよ。夫婦って、ほんとに、いやらしいんやから」  もう一人、私の知ってる女の子。昭和三十四年生まれ、まだない。 「ね、私のも用意してあるんでしょ、見せて」  とたんすをさがす。  女親は、かねての用意に、可愛らしい小さなバッグに詰めた、それ用のピンクのパンティや花模様のナプキンを見せる。女の子は、 「フ、フフフ」なんて、まんざらでもないようす。 「ふーん、こうなってんのか」などとちょっとひろげ、「これ、使うのね」なんて楽しみにしてる。  二、三カ月して、また、 「ね、用意してあるの、見せて。どッこもやってないでしょうね、ちゃんとしまってあるね」なんて念を押す。 「どうしてかな。ウメモトさんと私だけよ、クラスで。ウメモトさんに負けたらくやしいな、ね、どうしたら早くなる?」  また数カ月後、がっかりした顔で帰宅してきて、 「きのう、ウメモトさんあったんだって。くやしいな、負けちゃった。どうしてやろ、なんで私だけ、ないのかな、腹立つな、タベモノのせいかな。間食しすぎるからとちがう? ってウメモトさんにいわれた、くやしいな」  また、数カ月。 「もう一生ないのかもしれへんね。私、いいの。アフリカの奥地の無医村へ医者になっていって、シュバイツァー博士のあとつぎするんだ」  この女の子は変りものだということだが、私にはそうは思えぬ。アンネがないから、シュバイツァー博士のあとつぎになるという発想も、それほど突拍子もない無関係とは思えぬ。そういえば、「いま、何時?」ときいたら、 「何時やったらええのん?」ときき返すのも、「国語辞典」を調べていて突如、天を仰いで笑い出し、 「国語辞典に、〈国語辞典〉いうのん載ったァる」と笑い出すのも、さほどおかしいとは思えぬ。しごくまっとうなセンスである。  また数週後。やっと、あった。  しごく事務的な態度。 「うん、これがそうか。うん、わかった」  あっちこっちに散らかしたりする。女親はついてあるいて注意する。 「そうか、じゃまくさいもんやね、意外と。めんどくさいな、あんまり、よくないね」  いいものだとでも思ってたのかしら。 「おとうさんにいうたら、怒るよ、私」  そうして、いまや、三十二年生まれも、三十四年生まれも、もう何十年もおんな商売つづけているごとく、ものなれた手だれになってビクともせぬ。私たちのころは、その前後になるとメソメソ、くよくよ、ゆううつになり世をはかなみ、この世の憂苦を一身に担《にな》った顔になっていたのに、いまは恐れげもなくミニスカートで走り廻り、惜しげもなくアンネを費消し、脱脂綿を洗って乾かして使ってたヒトケタ世代とはえらいちがい、ただ一つ同じなのは、 「おとうさんにいうたら、怒るよ、私」  というセリフと、その日のうちに女親が男親にいうてしまう、その「夫婦のいやらしさ」。  これはもう、太古このかた変らぬすがたであるらしい。  変  身  小説ではよく、男と女が向きあっていて、突如、男がムラムラと来て、 「獣のごとく襲いかかった」  と書いてある。しかし、襲いかかられたことのない私には、そのへんの事情がもうひとつ、よくのみこめない。はじめからその気配があれば、女は避けるであろう。しかし小説によれば、その気配のないところから、突如、気配がおこるのだ。無から有を生ずるのだ。火のない所に煙が立つのだ。毛のないあたまに毛が簇生《そうせい》(?)するのだ。  その際の変身のありさまは、私には、いたく神秘的である。  紳士の仮面をかなぐりすてて、突如、本能のままに、猛然と襲いかかるという、これぞまさしく君子豹変であるが、ほんとうに、それはあることであろうか?  私が見る世間の男たちは、みな「変身」になど絶えて思いを至さない顔に見えるではないか。  変身するよか、アンマでもとって寝ようかという顔に見える。  または、銀行で割ってくれる約手の枠があといくらあるかと案じている顔に見える。  または、ヒデハヤテかトモエオーかと思案している顔に見える。  とてものことに、紳士が突如、変身して獣になりそうには見えない。  小説には男はみんな変身できると書いてあるが、大いに疑わしい。  現実では、襲う前に、まず電話で在宅の有無をたしかめ、訪問の旨をつげてから、駅前の菓子店で「お早めにお上がり下さい」というスタンプを押した菓子折など求め、その家についてブザーを鳴らし、応接間へ招かれて坐る。  淑女が出てくる。サテ、襲えるかどうか、考えてもわかるであろう。  突如、変身する、というのがなかなか、できない。  現代人はテレ屋である。小説の通りにゆかない。  また、女のほうも、小説によると、高貴な姫君でも誇りたかいインテリ女性でも、どうかすると瞬時に変身し、 「彼女はオンナになった」  と書いてある。  しかしながら、紳士が、獣に突如、変身できぬごとく、当今は、淑女も、オンナになりにくい。  天気の挨拶やら趣味の披露やら、繁文縟礼《はんぶんじよくれい》にしばられて、なかなかオンナに変身できない。つまらないが、できないものはできないから仕方ない。  挨拶ぬきで変身できるはずの、夫婦・恋人同士のあいだとなると、これはもう、いっそう始末がわるくなっている。  カモカのおっちゃんに、 「お宅では、奥さまを愛しはるとき、どういう言葉でキッカケをつくりますか」  ときいたら、おっちゃんはすこし考え、 「オイ、どないや、といいますな」  もうちょっと、ほかにいいかたはないものか。  何とも殺風景。 「奥さまは」 「女房《よめはん》は、〈そやねえェ……〉なんどと、しぶってみせる。それから何のかのと用事をひと山片付けてやっとくるから、その頃には、いうた方が忘れて寝入ってますな。いや、うまいこと、いきまへん」  もう夢もロマンもなく、これでは男が獣に変身するたのしさを見られるはずもないであろう。こんな風だから、男たちは明日の会議には、どんな風に発言しようかと考えつつ、女たちは、明日はぜひクリーニング屋に電話して催促しなきゃ、などと思いつつ、狎《な》れきって感激のない愛を交すことになるのだ。これを思い、あれを思いしていると、日本の前途はマックラで文化不毛、憂国の痛憤に胸かきむしられる思い、しかしまたひるがえって考えてみると、変身なんて、人目をそばだてることは現実にないほうがいいのかもしれぬ。のべつやたらと君子豹変して、じりじりと寄ってこられたりしたら、かえって煩わしくなるかもしれない。 「オイ、どないや」  のほうが、少なくとも現代人には「獣のごとく」変身して襲いかかるより、よく似合う。すべて人はなれないことはするものではないのだ。ニンに合うことをし、甲羅に似せて穴を掘らなければいけない。すべて、「オイ、どないや」式でいったほうが無難である。  小説は小説、現実は現実、と、劃然と分けておくほうが、りこうなやりかたであろう。  小説の世界と現実の世界をごっちゃにできるほどのロマンチストは、私は三島由紀夫サンと太宰治サンの二人だけだったと思っている。  三島サンの死の真似は人にはできない。  太宰サンの死にざまも、ほかの人には、ことに「オイ、どないや」世代のドライな心情の我々には、真似られない。  太宰サンは山崎富栄という女性と心中している。その富栄サンの遺書の文句がいい。 「修治さま(太宰の本名)は、私がいただいていきます……」  やっぱり、こう書いてピタッとはまる人は太宰サンのほかにいないのである。太宰サンはきっと女を前に、変身できた人であろう。  太宰サンの死から何ほどもたっていないのに、世の中は進んで、もう、こんな文句の使える人はいなくなった。太宰サンの時代はまだ、ロマンチックな時代、男が変身できた時代だったのだ。  かりに松本清張先生とする。 「清張さまは、私が頂いていきます」  とくると、これはどうみても、清張先生その人よりも、先生の原稿をさすものとしか思えない。 「宗薫さまは、私が頂いていきます」  といえば、何となくニコニコと、モーテルの特別室へでも案内する感じ。 「昭如さまは、私が頂いていきます」  なんて書置は、世の人を抱腹絶倒させるだけであろう。ましてや、 「狐狸庵さまは、私が頂いていきます」  と遺書にあったら人は何というか。ねッ。  いまはわるい時代である。実際、文化不毛もいいとこである。  コレクターの栄光  世に、性科学研究家と称する人は多く、またそのコレクションも、スケールの大きいのから小さいのまで、種々雑多である。  私も三、四、それらのコレクターとコレクションに出あったことがある。そして、これらコレクターたちには、一種、独特の雰囲気があることに気付いた。  尤も、私はこの方面の第一人者、高橋鐵氏にお目にかかる光栄に浴することはついにできずじまいだった。かつ、氏の有名なコレクションを拝見する機会も得られなかった。そこで、私のいう、コレクターの中に一括して、高橋氏をくみ入れることはできない。氏は別である。  私のいうのは、村々町々にいる、ごく庶民的な性研究家たちである。  彼らはそのコレクションを、金をとって誰にでも見せる——といったら、怒るであろう。誰にでも見せるのではない、ツテに紹介されてくるとか、予約をしないと見せないのだ、という。また、俗人に見せるのでなく、その道の研究家にしか見せないのだ、という。そしてまた、金をとるのではない、向こうが研究費を寄附するのだ、というであろう。  しかし予約すれば必ず見られるのであり、予約は誰でもできるのだ。かつまた、俗人は見せてもらえないけれども、この道にかけては俗人は必ず研究家になる素質があるのであり、研究費に至っては、それを払わせられるような仕組になっているのだから、仕方がない。——しかし簡単に、金を払えば誰でも見られる、というと怒るのである。かくの如く、彼らの第一の特徴は、気むずかしいことである。  おしなべて、不羈狷介《ふきけんかい》、ムスッとした顔をして坐っている。  尤もこれは、そのほうがコレクションに権威を与える意味からも、妥当なように思われる。  歌麿、英泉、国貞といった目もあやな秘画の前で、にこにこと揉《も》み手をして、 「さァ、どうぞ、どうぞ、一つごゆっくりとご覧になって、どの態位がいちばんお気に召しますか、とっくりご研究のほどを。さァ、いらはい、いらはい、今晩すぐ役に立つ世紀の大コレクション!」  などと愛想よくやらかしたら、せっかくのコレクションがあたら泣こうというもの、やはりこういうものは、お上の目を掠《かす》め、世間に憚《はばか》り、窓にカーテンひき雨戸をしめ、息をつめて見入らねばならぬように思われる。  気むずかしい所有者は、いずれも眉間に縦じわ、 「これそこらへんのものを勝手に触っちゃいかん、触るな、ちゅうのに!」  とどなるくらいは朝飯前で、 「私の説明に従って見てゆく。そもそも、太古よりこのかた、イザナギ・イザナミの二神が、成り足らざる処《ところ》に成り余れる処を……」  なんて、気の遠くなるようなところから話が始まってくる。これも共通している。  みんなウワのそらで講義をきいて、目はひたと絵や写真に見入り、古ぼけた土俗の木彫品など有難げにひねくり廻して手から手へ渡される。講義がすすむにつれ、ブルーフィルムなどのレッスンもあるが、こういうときのは真打は出さないようで、さして目あたらしいフィルムでもなく、このあたりから、東南アジア専攻コースと、欧米専攻コースなどに分かれるようである。  だいたい、神主、坊さんのたぐいは東南アジア、インド、中国あたりのコレクションが多くなり、民間の町の先生はデンマーク、アメリカあたりのものを専門になさる。  しかしコースの違いはあれ、これらコレクター兼研究家の諸先生の第二の特徴は、おおむね、ご自身は不能者らしき態であることである。  神経質そうな、かつまた、水に洗い晒《さら》しすぎたような、あるいは、山のてっぺんで風に吹かれすぎてしまったような、よくいえば、毒気のぬけた、わるくいえばしぼんで萎《な》えたような御仁が多い。  そしてその分、骨にまわって、骨っぽくなり、気骨稜々《りようりよう》、人を人とも思わず、男も女も屁のかっぱ、意のままに大喝し、うそぶき、頭ごなしに叱りつける。 「これが絵金《えきん》の絵巻、この筆勢を見よ、わかったか!」 「ハハッ」  と平伏させられてしまう。しかし、そうやってコレクションに権威をもたせられればもたせられるほど、それを強調する先生の憑《つ》かれた眼に、こちらは不能者の匂いを感ぜずにはいられない。  しかしこれは私の、浅い人生経験のカンであるから、当りはずれはご容赦ねがいたい。  だが、おびただしい秘画、春画、猥画、さまざまな性具、性的彫刻、リアルな奴あり稚拙な奴ありの中に取り巻かれ、人は現実の世界にひき戻されることがあるであろうか?  汗牛充棟《かんぎゆうじゆうとう》もいいとこ、まるで家中、足の踏み場もないほどに、性的情報の洪水、その中で男は現実の性になおかつ興味をもつものであろうか?  しぜんに風に吹かれ、水に洗い晒されてしまうのも仕方ないことではあるまいか。  次に第三の特徴としては、研究の対象が対象だけに官憲の圧力が強く(先生方の気骨はそれによって培《つちか》われたのかもしれないが)、ことに逸品を押収《おうしゆう》されたりした先生の、お上への怒りは深刻である。  警察も検事も、その逸品をどう処分したか、かつて明らかにしないという。一応焼却したというが、ではその現場に立ち会わせろといっても取合わないという。先生は声涙ともに下る調子になってお上を罵《ののし》り、官憲の横暴を呪詛《じゆそ》なさるのである。  しかしながら、反・お上であるとともに、諸先生方はわりに有名人ごのみであられるらしいのも共通している。たいてい、コレクションを見た内外有名人直筆の手紙や写真やらが、額に入れて飾られてあるのも同じ。和文・英文の讃辞にかこまれて、先生ご自身が有名人と写っていられる写真がまん中にあるのも同じ。  わが研究・蒐集《しゆうしゆう》の成果を人に問い、人に認められる、それは至難の道であると共に、何ものにも代えられぬ深い喜びであろう。諸先生方が、気むずかしく、不能者になられる所以《ゆえん》である。——と見たはヒガ目か。  拝観女の姿態  カモカのおっちゃんが疑問を提出した。栄光あるコレクターたちの不能うんぬんについてである。  カモカのおっちゃんは、コレクションが先生を不能にしたのではなく、先生が不能ゆえ、コレクションを始めたのだという。ニワトリが先か、タマゴが先かというたぐいであろう。どっちでもええやんか。  ところで、コレクションを見せるほうは居丈高になっとればいいが、見せて頂くほうも、これでなかなか、むつかしいところがあるのだ。  とくに、女が見る、これ、作法がむつかしい。  なんでこうも女は目立つのか。じつに女というものは、男より生きにくい、おんな商売を張るのも大抵ではないのだ。  男なら、大っぴらにコレクションを見て、 「ハア!」  と感嘆したり、 「なるほど」  と感に堪えたり、 「へえ!」  と悦に入ったりできるのだ。  しかし女はあからさまに面白そうな顔をするわけにはいかない。  とくに、中年女の進退はむつかしい。  若い女は、はじめからそんなものは見たがらない。また、たとえ見たにしても、 「キャア! いややわァ」 「いやァ! よう見んわ」  などと羞ずかしがるか、もしくはそのふりをしてたら恰好はつく。  婆さんとなると、これはもう矢でも鉄砲でももって来い、という、胆《たん》、甕《かめ》のごとき豪傑が多く、 「ほんにまあ、ようでけとること……」  としげしげうち眺めて、皺《しわ》んだ口もとをにんまりほころばせ、ホホホ……と笑っていたとて|さま《ヽヽ》になるのだ。いかにも適切で見よい眺めである。  しかし中年女は何としようか、しげしげ見るも怪体《けつたい》なり、羞ずかしがるのもカマトトじみ、さも汚らわしそうにするなら、はじめから見に来ねばよいと人のヒンシュクを買うであろう。あまり熱心にうちこんで探究調査するのもいかにももの欲しげで、眼がらんらんと光ったりしてりゃ、ざまはない、じつに女というものはことごとく、やりにくい。女同士うちつれての鑑賞もなまぐさい感じ、男の中にただ一人、紅一点でまじって見るのもおちつきわるい。  しかしむしろ、どちらかといえば、男の中にまじって紅一点で見るほうが私としてはマシである。  男の中へはいって見にいくと、紅一点といっても私如きドブネズミ級の中年女は、半分もう男みたいな外見、先方も、拝観者もさして気にならないらしく、おとなしくしてりゃ、どうということはない。  ヘンな嬌声をあげたり、ひとりだけうつむいてもじもじしてるから目立つのだ。  だまって、忍者のごとく、ひっそりと坐ってる、この呼吸が大事。  忍者は山田風太郎センセイや村山知義センセイや司馬太郎センセイの如きその道の権威によれば、そこに居て居ざるごとく、身を消滅させる術は、自我・自意識を任意に消すことであるそうだ。火遁《かとん》、水遁《すいとん》にくらべて、空遁《くうとん》とでもいうか、空気中に大気と化して、空々漠々と消滅する。そういう術を身につけた|くノ一《ヽヽヽ》となって、私は見るごとく見ざるごとく、半眼に見ひらいて拝観する。よって、同行の男性どもは、空遁の女忍に心ゆるし、いっこうに気にならず、おおっぴらに鑑賞するのである。そして私もそのおかげで、ゆっくり見ることができるというものだ。  これが、同行女性ばかりのグループだとどうか。  第一、向こうが手心して、いいかげんな奴しか見せてくれない。ウーマンリブは、なぜこんなときに立ち上がってくれないのだろうか。女だとタカをくくってみくびり、いいかげんなニセモノの絵や、ありきたりの写真や、デパートでも買えるようなシロモノしか出さないのである。  しかしながら世間知らずの婦人たちは結構それで肝っ玉をでんぐり返し、 「まあ、どうでしょう、おくさま、これ……」 「あら、いやだ、これと同じものを宅がもっていましたわ、何をするもんですかときいてもハッキリ答えないで……」  などとかまびすしく、いったん堰《せき》が切れるともうあとは恥も外聞もなく殺到し、欲張って一つでも多く見ようとし(無欲な女でも、群れると欲深になる)、人おしのけて踏ンばってのぞきこみ、いつまでも独占していて放さず、人より先に走っていき、もう疲れることおびただしい。  もし然らずんばいやにていねいで、まるでお茶の稽古でもやってるよう。  にじり口から入るごとく、扇子をひざ前においてふすまをあけ、両手をついて席中のようすをうかがって、にじってはいり、床に目もあやに散乱した極彩色の秘画に向かって、一礼して拝見したり、してはる。  さながら、棗《なつめ》や茶杓を拝見するときのごとく、両肘をひざにつけてセンセイから拝観者に廻されてくる、古ぼけて汚ない箱に入った「りんの玉」なんぞを拝見し、 「けっこうなお品でございます」  などという。これもくたぶれる話ではないか。よって私はそのたぐいのものを見るときは男といくんだ。そしてもっぱら、 「空遁の|くノ一《ヽヽヽ》でいくねん」  とカモカのおっちゃんに自慢してたら、おっちゃん、にがにがしく遮《さえぎ》り、 「どだい、女がそんなもん、見ることはないやないか。だいたい、この頃の女は、何でそう男と同じことをしたがるのだ。おまけに近頃の娘ときたら、何を見せても羞ずかしがらず、矢でも鉄砲でももって来いというシタタカぶり、却って六十七十のお婆ンが顔赤うして羞ずかしがったりして、もう、どっちへ転んでも女はいやらしい。女はそんなもん、見んでもよろし。女は黙ってやらせとりゃ、ええのだ!」  ワイセツの匂い  私の遠い親戚に道楽者の老人がいて、妾の家で死ぬという大往生を遂げた。私の子供じぶんの話である。  女学生の私にはすでに、妾というものがどういうものかわかっている。  それはよろしい。しかし次に、オトナたちが、 「妾いうたかて、あんた、もうあのおっさんは早うから、門口《かどぐち》でオジギしてはンねンから……」  といい、入れ歯もはずれんばかりに、 「フャッ、フャッ、ヒッ、ヒッ」と声を合せて笑い、私はいたく不審であったのをおぼえている。  門口というのは大阪弁で、玄関という意味である。玄関へ訪れてゴメン下サイとあたまをさげるのは当然ではないか。どこがそうおかしいのかと私は思いつつ、寝そべって「少女倶楽部」の「どりこのどりちゃん」のマンガなぞ見ていた。  しかし、何か、ワイセツの匂いをかぎつけたから、今なお、記憶にあるのであろう。オトナというものは、いみじくもワイセツなものだと、子供心に私には深く印象されていた。  私のウチは大阪下町の商家で、使用人を入れて二十何人の大家族であった。而《しこ》うして女連中は、矍鑠《かくしやく》たる八十歳の曾祖母を筆頭に、大奥とでもいうべき、一大勢力圏を形づくり、曾祖母のトグロを巻いてる隠居所は一家の中枢で、大蔵省、人事院、文部省、厚生省、新聞社放送局を兼ねていた。 「門口でオジギする」などという話を交すのは、たいがいこの大奥幹部である。未婚の若い叔母や、若嫁である私のお袋なんかは列席をゆるされない。  もっぱら元老級のご老女たちで、あたまを剃《そ》って頭巾《ずきん》をかぶってる曾祖母、入れ歯の祖母、続き柄《がら》のしれない掛《かかりゆ》う人《ど》の老婦人、千軍万馬といった親類筋の老女、シャベリの女中、そういう妖《あや》しきお局《つぼね》たちが集まって、あけすけな話を交す。そうして私は子供であるとお目こぼしにあずかって、隅っこにいても、彼女たちは平気である。 「ネソがコソする」などという大阪弁も、そこで教わった。ネソはねっそりだと、牧村史陽氏の「大阪方言事典」にある。「おとなしさうにみえる人が、かへつてかげでこそこそと、とんでもないことをしてゐる」という意だと、この本にはあるが、私はすでに子供のときに、この語感を知っていた。  裏通りのメリヤス問屋の手代、実直そうなまじめな男がひそかに主人の娘と通じていて、「娘のオナカを大きゅうしてしもた。あれがほんまに、ネソがコソするや」と曾祖母は歯ぬけの口でフガフガといい、私はまた「なんじゃもんじゃ博士」など読みつつ、あたまの中では、どこからかクダで息を吹きこんでせっせと「娘のオナカ」をふくらませているまじめな手代を想像していた。そうしておとぎばなしにある、オナカをふくらませすぎてパーンと破れた蛙のイメージをそれに重ねたりした。同時に「ネソ」の男はゆだんならぬとも子供心に思ったりした。「ネソ」の男は、おとなしそうに見えるが、人知れず、後手にクダをかくしもっていて、人のスキをみては息を吹きこんでオナカをパーン! といわせようと、ねらっているように印象せられた。それが、「コソする」ということであると、子供心に深く、うなずくところがあった。  長じて私は、「ネソがコソする」を標準語に翻訳しようと試みたが、むつかしい大阪弁の中でも、ことに翻訳しにくい語感であるようである。  東国には「むっつりSUKEBE」という名詞があるが、「ネソがコソする」という、淫靡な動詞のかんじにはあてはまりにくい。  ましてや、どこからかクダをさしこんで息を吹きこんで、オナカをふくらませようとする意味をあらわすのは至難である。「ネソがコソする」は、所詮、「ネソがコソする」としか、いいようのない、あやしの語感である。他語に置きかえにくい。  そういう語感を、私は大奥のお局たちからちゃんと教わった。  また、新聞の広告なんかを子供のころに何気なく、声を出して読む。 「ハナヤナギ病……てなんの病気?」と一ペんきいたことがあるが、そこにいたお局たちはいっせいに、 「フャッ、フャッ、ヒッ、ヒッ」と笑いさざめき、曾祖母は咳《せ》きこんで痰を懐紙にとりつつ、 「そないなことは、大きな声でコドモがいうもんやおまへん」とたしなめる。 「月やく、いんきんたむし」なんて大きな広告が、「蛇姫様」の新聞小説の下にのっている。私が声をあげて読むと、 「これ、そないなことは……」とたしなめられる。従って私は、人前で声に出してはいけないこと、いいことを自然に教わるわけである。  しかしながら、語感はともかく、「門口でオジギする」なんてことは、かなりのちになるまで、わからなかった。  たいがいの女学生は、よっぽどヘンな育ちかたをしたのでないかぎり、通常の家庭の女学生なら、男女のことわりは知識として仕入れるけれども、それでも、「門口でオジギする」ということの何たるかがわかるはずはないであろう。  ずうっと、ずうっとあとになって、やっと長年の疑問、一時に氷解、ということがある。  それからまた更にあとになって、また更に一時に氷解、ということもある。人間というものは長く生きてりゃ生きてるほど、アトになって思いあたることが多いらしい。 「イヤほんま、そういうことはありますな」とカモカのおっちゃん、「僕は聯隊旗、という言葉でしたな」 「聯隊旗——って、あの旧軍隊の。兵隊が捧げ銃《つつ》をして、旗手がおごそかに捧げているヤツですか」 「さよう、名誉の聯隊旗というヤツ。少年倶楽部の写真なんかでみたヤツを、いま、この年になってシミジミと思い出しますなァ」 「と、いいますと——」 「聯隊旗みたいな女がふえました。老いも若きも、ですわ。フサだけ残って中身はボロボロです。イヤ、あとになって思い当ることは多いもんです」  わが愛の不良たち  エスビーカレーなんていうカレーがあるけれど、あれはおかしい気がする。  私の女学生時代、SもBも、みな不良のやることだった。Sはシスター、Bはブラザーの頭文字で、Sは上級生下級生の仲よし、Bは男の子と仲よくなることで、といっても戦中派のことだから、文通とおしゃべりぐらい、それでも、SもBも不良行為といわれた。  いま不良とよぶにはあまりにもあざとい学生が多くて、男はゲバるか、ユスリタカリ、カツアゲ、婦女暴行、女だって修学旅行の車内で赤ん坊を産み落すなんてものすさまじいのがある。そんな不良から見ると昔の不良は幼稚園だ。聖歌隊の少年少女だ。  BはSにくらべて格段の不良といわれたが、それでもせいぜい、デートしてお好み焼屋に入るくらい、表だって妊娠だの、かけおちだのということは絶えてなかった。  もしあったとすれば、女学校の噂は早くて根深いから、十年昔の事件でも、いつまでも語りつぎ、いいつがれるが、そんなスキャンダルは耳にしたこともなかったところをみるとほんとに開校以来、それまでなかったのであろう。もしあれば不世出の天才である。出身名士として口碑にのこるはずだ。  Bをやる不良ですら、一年に一人二人、出るか出ないか、というところだった。  Sのほうはちょくちょくいる。  同級生や同学年は少なくて、たいてい上級生と下級生である。「おねえさま」「私の妹、何子」などという文句ではじまる手紙、ラブレターの習作みたいなのを筆箱や下駄箱に入れておく。同じ模様のハンカチを使うとか、同じ学用品を使うとかいったような、他愛ないもの、まして今どきの人が想像されるようなレズまがいのことはまちがってもなく、二人でひそひそ話してると、みんなが耳打ちなんかするだけ、そういう不良たちはたいていほっそりした美少女が多く、スカートのたけを長くし、上衣の脇をつめて短かめに、くつしたは黒のもめんでなく、学校で禁じられてる、黒い絹をはいてることもあった。  中には|わけ《ヽヽ》知り顔な、情緒のある子も多くて、Sだという少女はみないいかんじだったから私はあこがれていた。吉屋信子の「花物語」など読むと片っぱしからSばっかりである。しかし私にはSの申しこみもなく申しこむ勇気もないのだ。それ以上に私は不良と目されるのが恐くて、四角四面な女学生だった。  Bの不良たちは、Sの不良より下品で、勉強もできなくて、ちょっと崩れた感じ、これはマジメ人間の女学生から蛇蝎《だかつ》のごとく嫌われていた。  BはBばかりうちつれて集まり、コソコソ話してゲラゲラ笑い、中の一人は年中ズロースをはいていないという噂だった。私はまさかと思っていたけど、いつかその子が校庭のアカシヤの根元に坐ろうとスカートをひろげたのを、向いの芝生で見ていたら、スルッと白い脚とおなかまで見え、一瞬、息がつまり、そのあとの時間は授業に身が入らなかった。人生観が変ってしまうほどビックリした。ズロースをはかない女が、この世にいるのだァ! キャー、ワー、ほんまやろか! ワー。あたまの中はそのことでいっぱいになってしまい、もう何も考えられない。  それからは、その不良の子を見ると、なまなましい生肉《なまにく》が歩いてる気がして、動悸が烈しくなった。この勇敢な不良少女はあるとき、職員室で教頭先生に叱られて雷を落されていた。Bの相手の中学生とお好み焼屋にはいっているところを、教護連盟という補導係りの先生に見つかったのだ。  当時、女学生はお好み焼屋へいくことは禁止されていて、家族といくときも、「男子はご遠慮願います」という札のかかった店でないと入れない。それがこの勇敢な不良はやはり不良の中学生と手をたずさえて、町のあんちゃんがたむろする店に出入りし、三十銭の最上等の肉卵入りのヤツを三枚うち食らい、ミカン水・ラムネなどをむさぼり飲み、いっぺんの飲食に一円二円と払っていたのだ。私が習いにいく週一回のピアノの月謝が三円だったと、おぼえているから、当時の女学生としては豪遊というべきであろう。  先生にそれをとがめられて、ノーズロースの不良は敢然と、 「そんなこと、先生に関係ないでしょ!」とスカートをぱっとまくった、というのだ。 「アー」と、廊下に黒山のごとくむらがって、ガラス窓ごしに教員室をのぞいていた生徒たちは、いっせいに嘆息した。 「先生を何だと思ってる!」と先生はいい、生徒の鼻柱をなぐりつけ、私は見なかったけど鼻血ドバーッだったそう。昔の先生は女学生であろうと乙女であろうと斟酌《しんしやく》せずになぐったものだ。それが私のおぼえている、唯一のめざましい不良少女である。  しかしながら私自身は省みて、そのノーズロース女学生よりもっと自分の本質は不良なのではないかと忸怩《じくじ》たるものがあった。  なぜかといって、私は一見マジメ、一見優等生風をよそおっているものの、ホントいうと四六時中、中学生のことばっかり考えている。弟の取ってもらってる「少年倶楽部」のさしえに出てくる美少年にあこがれている。通学の途上出あう中学生のほうを見まい見まいとしている。表通りのお医者サンの、よくできる息子は北野中学校の生徒であるが、その中学生の窓の下を通るとき、どうしても首がヒョコッと窓を向く。ことにわれながらいやらしいのは、向かいの風呂屋、「あけぼの湯」へいくと、上がり湯の汲み口が、男女両用になっている、間に仕切りがあるけれども、清浄な湯に向うの人影が映るのである。もうちょっとで見えそうになるけど、さざ波がゆらめくだけでなかなか男のひとの全裸の姿が見えない。水面が平らかだと見えるだろうが、絶えず誰かが手桶で湯をかい出してるから、水かがみは割れるばかり、もうちょっと、ちょっと、と目をこらしているうちに湯気に中《あた》ってのぼせ、なぜこんなにSUKEBEに生まれたのかしらんと涙が出たものだ。 「イヤ、僕らの中学にも不良はいました」  とカモカのおっちゃん、 「女学校の運動会を見ようと、鳥も通わぬけわしい裏山によじ登り、山頂の木がくれにのぞき見してるところを先生に見つかって一週間の停学です」 「その先生は、何しに来てたんでしょ」 「何しに来てたんかいなあ、そんなこと考えへんとこが昔の不良の可愛らしさです」  ああ、不良でさえ昔は可愛かったね。  男のオナカの情感  私の子供のころ、玉錦という横綱がいて、この人のオナカがすごく大きいので、何が入ってるのか、ふしぎでしかたなかった。  玉錦が盲腸になり、手術した。  すると、そのオナカは大部分脂肪であると新聞に書いてあった。私の疑問はそれによって解けたが、玉錦は死んでしまった。  しかし男のひとのオナカの出ているさまは、玉錦のせいかどうか、私には押出しがよくりっぱな感じで印象せられた。  かつまた、オナカの出てる男はりっぱで堂々として、毅然《きぜん》としてゆるぎなく見えていながら、内実は、あるいはもろい、やわらかい、たよりない中身ではないかとも思い、何かしら気の毒げな、いたわるべきモノのようにも印象せられた。  これも玉錦のオナカの印象のためである。  男の出っぱったオナカは、イイダコの中身にプリプリと詰まっている|イイ《ヽヽ》のようでなく、ふにゃふにゃの脂《あぶ》ら身《み》であるように思われてならぬ。  便々《べんべん》たる太鼓腹、という形容は玉錦のものだったが、りっぱで、堂々としていながら、どこかもろい、庇護《ひご》すべきものの感じ——そんなものがまぜ合わさって私には考えられる。  たよりになりそうでありながら、また、たよられてみたい、という気にもなる。  私は、男のひとのオナカの出ているのは、だからきらいではない。そういえば、私は、男のひとのあたまの禿げてるのも薄いのも、きらいではない。初手からきらいな感じの男なら仕方ないけれど、もし好きになった男なら、オナカの出てる人でもあたまの禿げてる人でも、そばへいったらドキドキするほど嬉しくなる。  どうも考えてみるに、玉錦のオナカに親愛感をもったせいであろう。  男の容姿にも、こうでなくてはいかん、という注文はない。好きになった男なら、小男でも大男でも好きになる。男のひとは、女に関する好みがあるだろうけれど、少なくとも私にはきまったタイプはない。  ただ、ほかの女のひとはちがうらしくて、中年の女のひとで、あの青年の首すじがどうだ、とかこの若者の腰つきがよいとか、脚がすらりとしてる、顔のかんじがどう、などと夢中になって取沙汰し、品さだめしているひとがあるけれど、私は変人なのか、若い男の美しさというものに、うつつをぬかしたことはまだない。  若い男を見ても、若い娘たちを見るのと同じ、ちょうど花が咲き鳥が飛んでるのを見るように自然の現象の一部にしかかんじられない。どうかなったのかしらん、と不安になることがある。  それどころか、若い男が近ごろの広告写真なんぞで着物を着て写ってるのを見ると、じつに醜悪に見える。あれはじつにぶさいくである。細身にたけばかりたかくて、まるでふんどしを長々とひきずって歩いているよう、私は若い男というのにあんまり、美をかんじないのである。  着物というものは、腰骨が張ってオナカが出ている、横太りの男に似合うので、やっぱり、中年ぐらいから|さま《ヽヽ》になる。  服を着てれば恰好いいかというと、たけだけしく細い容姿は、若者の唯我独尊のシンボルのようで、あわれさがない。  私はどうも、男のすがたというものにあわれさがかんじられないと、好きになれない。  軍人サンにはそんなものは要らないという人があるだろうが、三島由紀夫サンの楯の会に悲壮美がないのは、みんな若者で細すぎてオナカが出てないからだ。  三島サンも、もう少しオナカが出てくるまで生きていて、オナカの出た体に楯の会の制服を着たら、あわれさが出てステキだったのに。  すべて男は、ある程度、オナカが出て、あたまが薄くならないと、いい情感を身辺に漂わせるに至らない。  ゴボーみたいに細長いのだけが取り柄じゃないんだよ。  この間、海上自衛隊へいったら、幹部の将官たちは、みんな押出しよく、ちょっとオナカが出てあたまが薄くなっていた。  昔はこの人々は、女学生あこがれの的の、海軍兵学校の生徒サンたちで、颯爽としていたのだが、さすがにお年がらである。そういう私のほうもいい年になっており、さながら、 「うら若き君がさかりを見つるわれわが若き日の果《はて》をみし君」  という歌の通りだったが、それでも、 「若き日の果」の男たちには、じつにえもいわれぬ味わいがあった。  軍服をまとっていてさえ、そういうオナカの出た男にはやわらかみのあるいい味が添うのであるから、まして普通の服では尚更のこと、それを男たちはオナカの出たのを恥じ、女たちは貶《おとし》めていうのはあさはかな見解というべきである。  中年の男でせっせと体力づくりにはげみ、というときこえはいいが、オナカの出ないように年よりのひや水ともいうべき鍛練にいそしんでいるのは、いやらしい心がけと申さねばならぬ(この際、同業者の範例ははぶく)。  私は何でも自然のままになってるのが好きだから、「いや、この頃、もう年でオナカが出てあきまへんわ」とうそぶいているようなのが、ほんとのプレイボーイではなかろうかと思う。  若いヤツが年よりの風をまねるのもいやらしいが、年よりが若いものとはり合うのも見ててしんどい。オナカの少々出てる男に嗜好をもってる女もこの世の中には多いはずで、女を見ればむりしてオナカをひっこめ、姿勢を正そうとするなんぞ、愚の骨頂である。  カモカのおっちゃんにいわせると、 「しかし、やっぱり女はスマートな男を好むのとちゃいますか」 「いや、そんなこと、決してないわよ。男は強そうで弱そうで、憎らしそうでやさしそうな、そんなところがあってこそ、りっぱなんです。それがオナカにあらわれてるので……」  と声を嗄《か》らしていってたら、おっちゃん憮然《ぶぜん》として、 「しかし、そない慰めてくれるのが、若いきれいな女の子ならええけど、えてして、そういうのは中年のお婆ンですからな」  とぬかした。  夜 這 い  釣師にして名エッセイスト(釣師には筆のたつ人が多い)たる山本素石氏の説によれば、そもそも日本の農村が疲弊《ひへい》し、一村ほとんど逃散《ちようさん》、という過疎地がふえ、山野荒廃した原因は何かというと、 「夜|這《ば》いの美風がなくなったからとちがいますか」  といわれる。  まさに名論卓説と思われるので、紹介させていただく。  夜這いというのは、その目ざす相手のベッドルームめがけて、暮夜ひそかに這ってゆくこと。などとわかりきったことをいうのは、いまどきの若い者、すでに「夜這い」という言葉すら知らないからである。  昔は、村の色|後家《ごけ》や、好《す》きものの娘などは、村の男たちのおのずからなる性的対象であって、ひそかに夜釣りがおこなわれたそうである。  その交流はじつに人間的で、情緒にあふれており、おのずからなるルールも生まれ、村落共同体の連帯を深め、人々を父祖の地にむすびつける魅力であった。この夜釣りはとくべつに仕掛も道具もいらず、「自前の毛バリ一本で」事は足るのである。  しかし釣り手は大ぜい、魚は少なし、というときには乱獲、場《ば》荒れを防ぐために、入川料を取る。つまり午前中に、おのが畑に出来た大根一本か胡瓜一本をたずさえて「これつまらん物やけど一つ」と届けるのだそうだ。この一本というところが泣かせるので、身代限りするほど金を使わせぬところがよろしい。  かくしてマナーが生まれ、生きる愉しみを与えられ、働くよろこびができ、山野みどりに人々は仲よく、平和な桃源郷をきずくことができたのだ。  しかるに時代の波がおしよせて、道路工事だ、ダムだ、工場誘致だと、山野が押しつぶされるに従って人夫や工員や、ヨソモノが入って来、却って村の男は出かせぎに出てゆき、共同体の連帯感は失われた。  いかな気のよい、好色後家といえども、夜釣りに応じなくなって門戸を閉ざしてしまった。  気ごころの知れた村の人間同士のおおらかな性の娯《たの》しみ、歌垣《うたがき》のよろこびは大昔の伝説にすぎなくなり、そうなればもはや人々は閉ざされた社会の中に生きることを阿呆らしく思い、村は潰れ、廃村となる。……  と、山本素石氏はいう。いかにも、さもありなん。  西郷どんは西南の役に一敗地にまみれて逃げるとき、藪をくぐり木の根を伝い、「翔《と》ぶが如く」ではなく「這うがごとく」落ちてゆかねばならなかった。しかしそこはさすが剛腹の西郷どん、ちっともあわてず、左右をかえりみてほほえみ、 「まるで夜這いのごたる」  といったので桐野利秋以下の猛将連も思わず吹き出したそうだ。  してみると西郷どんも、夜這いの経験者だったのだろうか。いや、たぶん人の話をまたぎきした想像での発言であろう。大西郷が夜這いの経験者ということになれば、日本歴史はその観点から書き変えられねばならぬ。夜這いということは決して一些事ではないのである。人間存在の本質にかかわる大問題である。  思ってもみよ、大根一本、胡瓜一本を、オズオズと、あるいはニヤニヤともってくる男たち。それを受けとる女たちも天真|爛漫《らんまん》に好かぬ奴だとか、先約があるとか、都合がわるいとかいうときは、 「間に合《お》うとるけん」 「ウチでも、けさ、もいできたばっかりじゃけェ」  などと断われる。  そっけなく断わったり、にっこり断わったり、残念そうに断わったり、できる。断わりかたも、種々さまざまに表情を出して断われる。生活に創造力をいかせる余地があるのである。  また、受けとってOKするときも、 「そこらへ置いといてェな」  とぶっきらぼうなOKの仕方や、 「まァまァ、美事な胡瓜やのう、太うて実《み》がつまってしっかりして、新らしゅうて、歯ごたえのありそうな」  と、まるで男そのものをほめたみたいな、快諾ともいうべき欣然《きんぜん》たるOKの仕方もあり、これまたいろいろさまざまであるから、たのしい。  中には急に思い立ってやって来て、事後承諾みたいなヤツもいたろう。予定外だと突き出す女もいたろうし、 「まァええわ、畑の胡瓜や無《の》えて、自前の胡瓜をもってきたんやさかい」  と寛大に許して入れてやる、太っぱらな女もいたろう。  考えてみれば、山本素石氏の説をまつまでもなく、じつにおおらかで素朴な性の解放であり、人間らしい関係である。ヒッピーやフーテンのルールもない乱交・蛮交とは質がちがう。  山みどりに、水清い日本の山野の自然がそこなわれたと同じく、神々のようにおおらかな性の自然も失われた。  かりに、今の時代なら、夜這いはどうであろう? いまの男には夜這いをしかけそうなエネルギーのありそうなヤツは見当たらんではないか。 「いや、それは女が強くなりすぎたからです。むしろ女が夜這いをしかけんばかりになってきた。そうなると男はひっこまざるを得まへん」とカモカのおっちゃんはいう。 「そうかなァ、もし私がおっちゃんのドアを深夜たたいたら、どうする?」 「入ってます、という」 「そこをムリに合カギで入って婉然《えんぜん》と笑うたらどうする?」 「こんばんは、という」 「そこをべッドヘもぐりこんで、こちょこちょと、おっちゃんをくすぐったらどうする?」 「おやすみ、いうて向こうむいて寝る」 「バカッ」  女が強くなったって、あかんやないか。  仙境の法悦  私が、どうも若い者のワルクチをいうというので、おせいさんは若い美青年にいい寄ってふられたのではないかという噂が飛んでいる。また、齢《よわい》すでに四十のゾロ目となり、返らぬ青春の悔恨に、若者と見れば嫉妬の炎むらむらと、毒舌を弄《ろう》するのだという説をなすものもある。  そんなことはありませんよ。  ありませんが、しかし、こういう若者はいただけないからだ。  過日、私はテレビを見ていた。私はテレビをよく見ている。酒を飲んでる時間ぐらいテレビを見ている。而うして酒を飲んでるのは一日の大半ともいいつべく、そうすると私はテレビを見てるか酒を飲んでるか、食べてるか、どちらかで、仕事は、これは神の思し召しにまかせ、その気になった時にする。  さて、テレビを見ていた。するとムツゴロウこと、畑正憲サンをかこんで若者たちがいろいろしゃべってる。ムツゴロウ氏は周知の如く、動物の楽園をつくろうとしている動物学者で、いまヒグマを飼ってて、ふやそうとしている。若者の一人が質問していわく、 「そんなヒグマのような、人を殺す害獣をふやしては、人が困るではないですか」という意味のことをいった。  するとムツゴロウ氏は憤然とかたちを改め、答えた。 「人を殺してもいいじゃないですか、ヒグマにはそれが自然だから」  キャーッ、かっこいい、ムツゴロウさんすてきッ。この問答は、中年と若者と、いうことが反対ですよ、反対。  こういう若いのは困る。私は、いびりたくなるのだ。若いくせにトシヨリみたいなこと考えるやつはあかん、キライ。  また、齢すでに四十のゾロ目になったとて私が何を嘆こうか、私は早く年とって七十すぎの老婆になりたいと思うものだ。五木寛之さんに倣《なら》って私も、七十すぎてからポルノを書きたい。それまで長生きして材料を仕入れなくちゃ。私は、余生の方に脂ぎったエネルギーを温存するように、配分しなければいかんと思っている。なぜなら萩原朔太郎は、 「余生とは自分の過去の仕事に関して註釈を書くための生涯だ」  といっているからだ。仕事というのはもちろん性的仕事であり、余生というのは性的余生である。朔太郎もきっとそういうつもりでいいたかったんだ、と解釈する。  ところで、若いときにうけた性的感動のほうが、としとってからのそれよりも、強いと人はいい、私も思っていたが、このごろつらつら考えてみて、あながちそうとばかりもいえないと思われた。女の性的生活は、初潮や結婚、妊娠、出産で生涯の花火をいっぺんにつるべうちにうちあげたと思いこみやすいが、年たけてだんだん、却って無数の花火が揚る気がする。だいいち、いろんな小説を読んでいるとわかる。  若いときにエロチックな小説を読んだら、あたまの上澄みだけがキンキンひびくようなショックである。  しかるに年とってから、それらを読むと、ひびきかたがちがう。  まず、読む本もちがう。年とると、やはり文章はまずくても、簡略でも、ホンモノの酒の匂いがぷーんとしてる本がよい。その匂いだけでクラクラとくるところがある。若いときには文章の美しさに足をとられ、みせ場に目を奪われて、真にエロチックなものと、そうでないものとの区別がまだつかない。若いとき、モーパッサンの「女の一生」を読んでいて、可哀そうなばかりで、エロチックな場面にはついに気付かなかったけれども、中年になって退屈をがまんしながら読んでいくと、突然、そこに気付くことがある。読んでて、はっとする。すると、あたまでキンキンひびくのでなく、|ずしーん《ヽヽヽヽ》と子宮にひびく。  女は年たけて猫又《ねこまた》になると、子宮で読むからおそろしい。へんなところの目で読む。  ずしーん、というと、躰中、家鳴り鳴動する。バズーカ砲に直撃されたみたい。  そうして、また、あら手の花火があがる。花火というのは女の体にむすうにあるのであって、一生、尽きることはないように思われる。  ただ、ブルーフィルムと同じで、ソコばかり書いたポルノ小説では、ずしーんとまではいかない。そういうあさはかなのは、せいぜいキンキンくらいである。 「壇の浦」だって何だって、ちょこざいな小手先の遊びである。きちんと小説になってて、くわしく物語ができてる中で、たんのうさせてくれなければ、子宮にひびくまでにはいたらない。  男性作家の小説はおおむね、カラッとしていて、ずしーん、とくるのはあまりない。その点、こわいのは女流のほうで、瀬戸内晴美センセイのものでも、円地文子センセイのものでも、すごいときがあるよ。ほんとにずしーんとくる。 「そういうのを読んだら、どうしますか」  とカモカのおっちゃんがきく。 「読んだらって、何がですか」 「いや、読んだあと、です。宮本武蔵みたいに、滝に打たれて邪心を払う、いうわけにいきまへんやろ」  私は、何をかくそう、ずしーん、とくるのを読むと、たとえ横にいる男が「週刊文春」記者氏であろうともしなだれかかりたくなるのである。(これは記者諸氏をおとしめていうのではない、念のため)  しかしそれを淑女が口に出していうわけにはいかぬ。かつ四十のゾロ目女のプライドもある。  私は威儀を正して答えた。 「そこが年をとるたのしみです。ずしーんとくる、そのずしーんそのものをたのしむのです。これぞ仙境の法悦です」  私はおっちゃんの口を封ずるべく、いそいでいった。 「そういうおっちゃんは、どんなもの読むと、ずしーんときますか」 「僕は中学生のころは〈アラビヤンナイト〉でしたな。鼻血が出るほど昂奮してしもた。今では自分で本読むことは、あんまり、おまへん。むしろずしーんとくるような本を読んでる女が、やっぱりずしーんときたとき、横にいてそれをじッくり見ている僕もずしーん、とくる、それがよろしな。イヤ、これは年とって発見した楽しみですな」  男は色情狂  まこと性の大海を汲み干すことのむずかしさは、いわばシジミ貝で井戸替えするにひとしく、気の遠くなるように深遠宏大な作業である。  私ごとき一知半解の女にその一端も悟りうるはずはないが、そんな蒙昧な私から見てさえ、どうかなあと思う誤りが多い。  ことに男性に多い。男ほど知ったかぶりして、まちがいをまちがいとも知らずに思いこんでいるものはない。  私のウチの近所の銭湯《ふろや》、しばらく前から工事していたと思ったら新装成って「気泡温泉」なる看板を掲げた。気泡というからには、湯に仕掛けがあって、アブクがブクブクと噴出し、湯を清浄に保つのでもあろうか、しかるにカモカのおっちゃんはいやらしく想像し、 「気泡を肌にうけて何となくくすぐったいような感じ、女にはことにコタエるのんちゃいまっか、こら女の客がふえまっせ」  風呂のアブクぐらいで女の官能がどうのこうのと、したり顔にいうのが片腹いたい。べつに象皮やサメ肌ではないけれど、女はいそがしいのだ、泡やアブクにいちいちとりあっていられるもんか。  さらに私のウチのずっと南には度量衡の計量器具一式をあきなう店がある。その看板には「さし・ます・はかり」とあり、またもやカモカのおっちゃん、 「あら罪な看板ですな、女は見て目ェ廻すのんちゃいまッか」 「どうしてですか」と私。 「そうでっしゃないか、ことにオールドミスなんか見たら、心悸とみに昂進して卒中おこすやわからへん」などという。 「さし・ます・はかり」がどうしたというのだ、私にはとんとわからぬ。  さらにはまた、テレビでかろやかに美女が踊っているのを見つつ、おっちゃんは、 「あれあれ、ま、あれ、よいしょ、どっこいせ、どっこいまかせの、よッこらしょ」などとかけ声する。うるさくてならぬ。 「静かに見ないんならほり出しますよ」 「いやしかし、よう、あない足を拡げたり上げたりできるもんや思うて。ちっと、口つむったらええのに」 「口はつむって踊ってはるやないの」 「いや、あない足あげたら、口はあきっぱなしですがな。見てられまへん」 「口はつむってはる、いうのに」 「その口ちがう」  これも何の話かわからないが、男のドタマの中って何が詰まってるんでしょうか。 「所詮、この世は色ばかり、ですわ」とおっちゃんはいうが、色気でのぼせて何を想像してるのやら、私は世界中の男という男、あげて色情狂の気が九十三パーセントはあるのではなかろうかと思うものだ。  全く、よくもああ、好色的な物の見かた、考えかたをするもんだと思われる。男たちの定義によれば、女とはひたすら閨房のことに憂身をやつし、あけてもくれても考えるのはソノコトばかり、男と見ればしなだれかかり、女房という女房は、亭主たちをあけくれ間断なく責めはたいて、最後の一滴まで絞りつくそうとし、亭主連はいまや、おそれおののいて、ひたすら女房の苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》にオタオタと逃げまどう、というものである。  誰のことですか、いったい。  女と男を並べてご覧じろ、カモカのおっちゃんをひっぱってくるまでもなく、SUKEBE度はどっちがまさるか。女房族と亭主族で決戦いたしたいくらいだ。  この際、私は声を大にしていいたい。声が嗄れてもかまわない。  いつもいつも女が男にかつえ、求めてると思《おも》たら、エラいまちがいでっせ。  だいたい女房だっていそがしいのだ。婦人雑誌だって取っていても型紙つき簡単服の縫い方やら今晩のお惣菜に先に目を通す。男のほうが奪いとって「愛のナントカ」という色刷りのページに読みふけってるのだ。さらに女房は食後の片づけ、子供の入浴、明朝の食事の支度をすませ、ゴミをダストシュートヘ落しにゆき、玄関のドアの旋錠をたしかめ、窓を点検し、子供が蒲団をはいでないか、腹巻ははずれてないか、見廻ってやる、ガス電気を消し、やっと自分の寝床へくるころには、もうクタクタであるのだ。  しかるに何だ、サトウさんもスズキさんもヤマダさんも、亭主という亭主は婦人雑誌の附録「愛のナントカ」などを読みつつ、目をランランと光らせて待ちかまえていたりして、ライオンにねらわれる子ウサギのような、あわれ人妻たち、〈やれやれ朝が早いのに〉なんて思いつつ、しょうことなしに亭主の意を迎えねばならない、浮世の義理は辛いものであるのだ。  さもないときは、できるッたけ男の劣情を挑発しないように、体に蒲団を巻きつけて寝たりして、敷蒲団もなるったけ離れて敷く、たまに男が先に眠っていたりするとホッとするということがあるのです。  朝も朝とて、朝に劣情を起しやすい輩《てあい》がいて、これまた難儀、子供を幼稚園、学校へ押し出すのに妻は手いっぱいだ。それをいつまでもグズグズしていたりして、寝床から、 「オイ、オイ」なんてよび、オイという名じゃありませんよと妻は思いつつ、何ですか、と立ちはだかると床へひきこもうとする。 「何やってんです。時計見なさい、時計を!」と妻は叫んで目ざましをつきつけねばならぬ。  中にひどいのは、いっぺん家を出ていながらバスストップで待つうち、新聞の連載小説を読んでると、たまたまそれが、瀬戸内晴美女史とか川上宗薫センセイの小説だったりして、ついフラフラと淫心きざし、またもや家へとって返して、後手にキイをさし、 「あら忘れもの?」とけげんそうな女房を押し倒したりするバカもいるのだ。  ほんとにもう、男って、亭主族って、どうしようもないではございませんか。 「水より清いおん身をば   わたくし故に、濁《にご》らせます」  というのは種彦の「偐紫《にせむらさき》田舎《いなか》源氏《げんじ》」にある、光氏《みつうじ》が藤の方をくどく、くどき文句であるが、オール男性とオール女性との関係は、まさにそうですね。  往  生  以前、女が男からいわれる一番うれしい文句は、 「寝ませんか」  というくどきだといった。  しかしながら無論、それは抽象的な意味でいったのであって、現実にくどくときは、誰もこんな表現はしないと思う。そう直截にいわれたら、ミもフタもない。ことに女は、エエ恰好しィでなくても、白か黒かと問われた場合、ほんとのことをすぐいえない。いやだといってしまう。女を追いつめてはいけないのである。女に返事を求めるときは、かならず逃げ道をつくっておかなければいけない。だから、その意味するところは同じでも、ちょっと手をかけて、カムフラージュしなければいけない。人間というもんは気のもんで、いい方のニュアンスでずいぶんちがう。  私の友人(以下みな男)某に、女をくどくときはどういうのかきいてみたら、彼は専ら相手が相手(バー、キャバレー、小料理屋等水商売のご婦人)ゆえ、 「どや、ボクの彼女にならへんか」  というのだそうだ。  また別の友人某は能もなく、 「どや、ホテルヘいこうか」  というのだそうで、これも芸のない誘いである。私がそういうと彼らは反駁《はんばく》して、「そやけど、それを何べんも何べんも、性こりもなしに顔見るたんびやってると、向こうも呆れてどうかした拍手にクラッと落ちよる」ということだった。芸のないところは粘りでいくという、まことに愍笑《びんしよう》すべき範例ではあるが、仕方ない。もともと日本男児は無趣味に育てられてるからいかんのだ。民族的欠陥なのだ。美辞麗句を並べたり、詩を引用したり、おだてたりもち上げたりして女心をくすぐるあの才能も器用さも、マメな遊び精神もないのだから、このへんのところかもしれない。「させろ」「やらせろ」というのも高圧的であろう。古川柳に、「旦那でもさせおろうとはあまりなり」というのがあり、ここの旦那はご主人さまのことである。使用者、身分の高い男、殿さまのたぐいである。よく時代小説にある、お大名などが腰元・女中を無理無体に手ごめにすることを「迫姦」というのだそうだが、「させおろう」というのはその感じが出ておかしい。  また別の友人某は、「そんなハッキリいうたらあかんがな」と、友人連をたしなめていた。彼は母国の湿潤なる風土性をかえりみ、民族の|あいまい《ヽヽヽヽ》模糊《もこ》とした精神文化をおもんぱかって、決して|あたま《ヽヽヽ》から|しっぽ《ヽヽヽ》までしゃべらないそうである。何ということなく、おぼめかせ、 「どや。え? かめへんやろ? ええやろ」  というそうだ。すると女は、 「イヤ!、もう|かなん《ヽヽヽ》なあ、いつもいつもアレばっかりやもん……」  と閉口する。而うして、友人も、五へん十ぺんでは|らち《ヽヽ》があかぬという。間がなすきがな、いうそうだ。くり返しくり返し攻撃するそうだ。そしていいかげん時間をこってりかけて、 「もう、ええかげんに往生《ヽヽ》せんかいな」  という。  この「往生」がいい。大阪弁で「往生する」というのは、ゆきづまって手をあげる、観念する、覚悟をきめる、などの意があり、くどき落される、倒産する、などに使う。弱った、困った、とかるい意味でも使うが、この場合は、とうとう、落城、という意味である。  そういえば、東京弁で、 「観念しろよ」  といわれたら、何だかヤクザのスケになれと脅迫されたようで絶体絶命の感があり、 「覚悟しろ」  といわれたら、輪姦《まわ》されるみたいで恐ろしい。貞操堅固でなくても、イヤダヨッといいたくなる。その点「往生しいな、な」などといわれると、逃げ道があるから気らくであろう。 「往生しなさい」では、こんなことがあった。私の顔を見るたびに、 「いっぺん、僕のいうことをきいて下さい」という奴があった。彼は女子大の先生である。先生はSUKEBEだという世間の通念に毒された私は、彼もそうだと思いこんでいた。私はいつも断わりつづけていた。それでも顔見合わせるたんびにそいつはこりずにくどく。 「もう、ええかげんに往生しなさいよ」  という。 「ちょっとの間、体を貸してもらえばいいのです。ぜひとも、と前から思ってたんです」  うれしいような困るような、よくぞ女に生まれける、といった気分である。私は酒場のカウンターに指で「の」を書いていた。うれしいやら恥かしいやらで顔が上げられない。 「忙しいんでしょうけど、ほんのちょっとの間ですからお手間はとらせません」 「でも」 「ギャラもちゃんと払います」 「失礼な。あたしプロとちがいますよ」 「それはわかっていますが、貴重なお時間を割く失礼と、あなたに対する敬意のあらわれです」  ちなみにいうと、その男はジェラール・フィリップに似た、繊細な感じの男前である。女子大生だけでなく、熱をあげてる女も多いのだ。  私は大いに心動かされる。小声になって、 「ウチの亭主にはナイショにしてくれますね」 「関係ないことでしょう。それとも、いつもいつもついてこられる慣習ですか?」 「とんでもない。それほど悪趣味じゃありませんわ」 「ではまたもや御意《ぎよい》の変らぬうちに、と——。えーと、いつがよろしいか」  彼は手帖を拡げた。 「あなたのご都合のよいときにしましょう」  私のほうのご都合は、そうときまればアレの時期以外はいつでもいいわけだ。 「ではこちらできめます。ダイは何にしましょう?」  私はけげんな顔になり、 「ダイって、寝台ですか?」 「演題です。�女性の生き甲斐�とか、�これからの女性はどうあるべきか�とか……」  そいつは、自分の女子大で私に講演させようとくどいていたのだ。  痴  漢  痴漢の季節になった。  痴漢というと私は「教育勅語」を思い出す。 「教育勅語」というのは明治二十三年十月に、明治天皇が日本の根本的教育理念として下賜した勅語で、終戦までは、たいへんな権威をもつものだった。若い人たちのためにいうと、祝祭日、学校で式のあるときは、必ず校長先生がモーニングを着て白手袋をはめて恐る恐る「教育勅語」を両陛下のお写真の下段の棚からとり出し、捧げもって、震え声で長々と読む。ノリトのような節《ふし》をつける。  生徒たちは直立して首を垂れてきく。あたまを下げっぱなしなので、必ずそこここで、ハナをすする音がきこえる。  文句は子供にはチンプンカンプンである。たとえばこうだ。「朕《チン》オモフニ我ガ皇祖皇宗国ヲ肇《ハジ》ムルコト宏遠ニ徳ヲタツルコト深厚ナリ……」こういう文句が延々とつづく。子供には苦役である。私なんぞは上眼使いに校長先生の顔を見たり、隣の子の靴の先を踏んづけたりしてた。  ところで、その「教育勅語」と痴漢の関係だが、私は娘のころ七年ばかりも女事務員をし、大阪へ通勤したので、じつによく痴漢にやられた。やっぱり、夏が多いようであった。  私は小太りで肉付がやわらかく、ポチャポチャしていた(昔は)。それに色白だったし(昔は)間のぬけた顔をしていた(とくに昔は)。こういうタイプは痴漢にねらわれ易うおます、と知り合いのお巡りさんはいっている。  満員の車内、汗びっしょりになり、無念無想で揺られていると、どこからともなくオシリを撫でる手が忍び寄ってくる。ふり払ってもふり払ってもまたくる。じつに執拗である。驚嘆すべき粘りである。不撓不屈《ふとうふくつ》の精神力である。それを仕事に廻したら、何とかモノになるだろうに、それは廻す気にはならんらしい。  体の向きを変えるとこんどはスカートの前へ手をのばしてくる、斜《はす》かいにすると、更に図々しく、私の手をにぎって、自分のズボンのジッパーの前へもっていこうとする。危うし、おせいさん、さて、そこでだ。  見上げてごらん、夜の星ならぬ痴漢の顔を、だ。男の手から腕から、肩から、見上げていくと(その頃も今も一五〇センチに満たないチビである)痴漢の顔付きというものは厳粛崇高なものなのである。「教育勅語」を拝読朗誦していた校長先生の顔にソックリなのである。 「朕オモフニ我ガ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ……」  というような、荘重な顔なのである。痴漢は、一技一芸に達した人のもつ悟りのようなもので、顔は澄みきっているのである。戸田白雲斎のような、大悟解脱《だいごげだつ》の仙人みたいな顔をしているものだ。  私は必死にモゾモゾする。当然、周りの男たちはチェッ! という顔で、私を見おろす。私はニューヨークのビルの谷底から青空を仰ぐ人のごとく上向いて、 「すみません、|けったい《ヽヽヽヽ》なおっちゃんがいてはるんです」  という。それでウヤムヤに痴漢は作業を中止する。しかし、周囲の男たちのあいだには私の言葉によって一種の苦笑とも|照れ《ヽヽ》ともつかぬザワメキがおこり、それは今にして思えば、仲間の不始末をかばいだてするような、ある連帯感のザワメキであったと思うのだ。  女の子が口|尖《と》がらせて、訴えているのを、(まァ、ええやんか、かんにんしたりイな)とかばうような、無言の共感を、男同士はもっているらしいのだ。  してみると、男には、みんな痴漢の要素があるのだ。大久保清までいかなくても、その卵ぐらいは一つずつ抱いているのだ。  あの男たちの苦笑まじりのザワメキの連帯感がクセモノだと、私は思う。男の中に放たれた女の子はみな、狼にねらわれる子羊で、その純潔は風前の灯《ともしび》ともいうべく、ことに困るのは、「けったいなおっちゃん」らが、童女・幼女をうかがうことで、これは憂慮すべきことである。  私たちの童女時代にも町内に一人ぐらいは「けったいなおっちゃん」がいたと思う。おっちゃんは子供たちを遊ばせると見せて仲間に加わり、大阪のわらべ唄に、 「紺屋《こうや》のお鼠《ねず》が、藍|食《く》て糊食て、|すまんだ《ヽヽヽヽ》(隅っこ)ヘコーチョコチョ」  という遊びがあるが、こう唱いつつ相手の子の掌《てのひら》をつつき、コーチョコチョで急に相手の腋の下をくすぐる。相手の子はキッキッキと笑うのである。おっちゃんは腋の下の代りに、スカートのオシリをじわッと撫でたり、抱いたりする。  町内の風呂屋「あけぼの湯」へいくと、おっちゃんは番台の横に立ち、全裸で大股ひろげて体を拭き拭き、女風呂を偵察している。たいがいの男たちは、番台に金を払うときは、女風呂のほうを見るが如く見ざるが如く、一瞬のあいだに通りすぎるが、おっちゃんは仕切りの|のれん《ヽヽヽ》の間からじっと眺めるのだ。  小学一、二年まで私はこっそり裏の露地《ろうじ》の溝でオシッコをしていた。家の便所まで走ってかえるのはじゃまくさいからである。  友達のサッちゃんと向きあって溝にまたがり、オシッコのかけあいをする。私のよりサッちゃんのほうが射程距離が長くて、私の小さな下駄《かつか》は濡らされた。二人でキッキッ、クククク、と笑っていると、そういうときに、けったいなおっちゃんはそば近く突立って凝視しているのである。そうして、そういうときの顔は、おしなべて、 「朕オモフニ我ガ皇祖皇宗……」  という厳粛な顔なのである。決してニヤニヤなんか、してないのである。ニヤニヤしてながめてるのは、痴漢でもけったいなおっちゃんでもないのである。ニヤニヤするのは、これも昔の町内に一人二人は必ずいたのである。マトモなオトナの男は「こらッ、ミミズにオシッコかけたら腫《は》れるぞ!」と叱るのである。  しかるに、けったいなおっちゃんは、ニヤニヤもせず、おごそかな、ひたすらまじめな、求道者のきびしさをたたえた顔で見るのである。私は童女ながらに、そのおごそかな凝視の不自然さを知っていたと思う。 「教育勅語」は昭和二十三年十月、国会で失効を宣告されたが、私にあっては張りボテの権威の空しさと、人間性の暗黒部分とで、何か結びついてる感じである。  女 の 出 撃  女のハンドバッグには何々が入っているのかと、男はいつも思うらしい。  さしたるものは入っていないが、このあいだフーンと思うことがあった。  デパートの舶来品売場で、私はきれいな小函をみつけて買った。金属製の楕円形で、大きさは拇指《おやゆび》の腹ぐらい、フタは七宝焼きで美しい。何するものともなく買ったが、あとでケースの品名を眺めたら、 「ピル・ボックス」  とあって、なんだ、そういえば避妊薬のみならず、クスリを携帯するのに適した函である。  アメリカの女は、こういう美しい函にピルを入れて、それをハンドバッグの底にしのばせるのであるか。 「日本やったら何でっしゃろ」とカモカのおっちゃん、「やっぱり、コンドームでっか」 「いやそれは……」と私は赤面した、「玄人衆とちがいますか? 素人のOL、家庭婦人、女子学生はまさかそんなことはありますまい」 「しかし、いざ出撃、というときには、やっぱりもっていくのとちがいますか」 「特攻隊やあるまいし。その用意は殿方でするものとちがいますか、いうならヨロイカブトは男のものでございますからね」 「男はそこまで気ィ使《つこ》てられまへんわ」  といい合いになった。 「しかし、家を出るときに、ですね、今日あたりは、万一、ひょっとして、もしかしたら、という予感みたいなもの、期待、武者ぶるい、虫のしらせ、見通しみたいなものは、あるんでしょ、男が女とあうときは」 「それはまァ、ありますな。ハッキリ、そのつもりで出ることも無論、ありますが」 「するてえと、そういうとき、男は何をもっていきますか? 男の出撃には」 「まず財布でしょうな」 「あッたりまえでしょ」 「それからカミソリ」 「また、用意周到ね。ホテルに備えつけはないのかしら」 「ヨソのもんは衛生にわるい。下着、靴下をとりかえてきますな」 「そんなところですか」 「最大の準備は、女房《よめはん》をだまくらかすことです」 「それはもう」 「車もってれば運転免許、キイに地図、しかしまァ、女房へのいいわけと財布、男の出撃準備はこの二つに尽きますな。女はどうです」 「女は」  といいかけて私はハタとつまった。私は出撃したことがない。 「失礼な。そういう女だと思うんですか、しかしまァ想像してみるに、まず化粧道具、これは顔を洗うとファンデーションから流れますから、ふだんより本式にもっていかねばなりません」 「なんで顔洗うねん、洗うことないがな」とカモカのおっちゃんはしつこくいう。 「知らんけど、それからチリ紙。向こうへ着いてからフロントヘ電話かけてチリ紙もってきて下さいというのは心臓に毛が生えないといえない」 「よう知ってはる」とおっちゃんは鼻白んだ感じ。 「チリ紙屋するのかと思うくらいもってゆく人もあるかもしれません。それからハンカチ、これは指環や腕時計をくるんでバッグヘしまうため」 「なんで指環や時計をはずすねん」 「知らんけど。それから手帖。たいがい、女の手帖には×や○がカレンダーの上についてる。これは日ニチを勘定するためです」 「なるほど、オギノ式」 「それから針道具。ひょっとして服の裾とか袖つけが破れた場合、応急処置をするためです」 「何で破れるねん」 「脱ぐまで待てないようなセッカチの男もいるでしょうし」 「いやはや」 「しかし、最大の準備は、男が女房をだます如く、女はオギノ式で指折って数えるか、あるいは他の方法でしょうね。クスリのご厄介になる人もあるかもしれない」 「だんだん、いやになりますな」とカモカのおっちゃんはいった、「そういう作為的に準備して出撃するというのは現代人のいやらしさの最たるものですな、意気投合してパッとハプニングが起る、という、そういう大らかな男と女の関係はないもんやろか」  そんなハプニングを起されたら、女はたまったものではないのだ、ほんとうはそんな方が人生で意義あることなのであるが、現実はいかんともなしがたい。オギノ式の日ニチはともかく、化粧品も足らない、下着も更えてない、ゆうべ髪を洗いそこねた、ホテルの風呂のシャンプーはいつも使っているのとちがう、などと、当惑することばかり。何ごとにも準備や支度はあらまほしきもの。やはり前もってスケジュールを示しておいてほしい。  女というのは、いいかげんスケジュールをきめられていても、当日はいろいろと差し障りの多いデリケートな生きものである。いざ出撃とパンティからガードルからスリップからドレス、つけ終ったころに、突然、月に一度の日をまちがえたお客さまが来たりして、また脱ぎ直したりしなければいけない、その煩わしさと手つづきの小むずかしさは、男には到底わからないことである。それに、何にも差し障りがなくても、用意してるうちに、急に出撃がおっくうになる、何のために、あんな男と会戦せねばならんのだ、などと思い出すともういけない、さればといって、では出撃中止するかというと、これも何やら心のこりである。女の心理と生理は複雑なのだ。  出撃直前というのは、特攻隊員もかくやと思うほど、千々に心がみだれるものなのだ、出るもゆううつ、出なくてもゆううつ、 「いったい、ほんならどないせえ、いうねん!」  とカモカのおっちゃんはいうが、女のせりふはたいがい、こうである。 「バカ、わからないの! 結婚してくれればいいのよ!」  月のさわり 「最上《もがみ》川 のぼればくだる稲舟《いなふね》の いなにはあらず この月ばかり」  という古歌は、古来意味深長なものとされている。しかし大方は、現在までのところ、 「いいえ、そうじゃないの、イヤだっていうんじゃないのよ、ただちょっとね、いまはアレなのよ、ごめんなさい」  という解釈が行なわれているようである。であるから「月」は「月のさわり」のことだとある。  なぜこの歌をもち出したかというと、カモカのおっちゃんが例のごとく角壜一本を提《さ》げて遊びにきて、こぼしていったからである。  おっちゃんは先般、女子大生の美女を首尾よく誘い出すことに成功した。商売女のたぐいではないから、これは全く破天荒なことである。良家の令嬢を言葉たくみに旅に連れ出すなどというのは、おっちゃん如き中年男としては上出来であって、おそらく一世一代、腕にヨリをかけ、金をかけたのであろう。  結構な温泉にはいり、結構な食事をいたし、微醺《びくん》を帯びて有頂天、さてこれから、結構なオトナの楽しみを極めんとする、まさにそのとき、令嬢は、 「おじさま、あたくし、今日アレなのよ」  と無邪気におっしゃったそうである。  私はきいてみた。 「おっちゃん、イカったの?」 「イカったね、これは。七転八倒しましたで。それならそうと最初から、いえばストトンで誘やせぬ。こら|サギ《ヽヽ》やないか、カタリやないか、ダマシウチやないか、けしからんです。人間のすることではない、天人ともに許さざる不徳義です」  大正フタケタ、昭和ヒトケタの男はいうことがオーバーだ。 「そういって逃げたんではないでしょうか」 「それはホンマのとこやったんでしょう、僕にアンネを買いにいかしよった。天真爛漫もええとこ」 「やっぱり処女というのは勝手がちがうね。なれないことをするからよ」 「いやしかし、玄人でもえげつないのがおりまっせ」  ゆきつけのバーで、かねてねらいし美女、これもやっとの思いでくどいて連れ出したが、まずは腹ごしらえ、というのでご馳走したら、食うわ食うわ、鮨にビフテキに天プラにお茶漬け、目から飯粒が出るほど食らって、さてホテルゆきのタクシーに乗ったら声ひそめ、 「ねえ、わるいけど、今日、あかんわ……そんなはずなかったんですけど、ごめんね」 「何や、親方日の丸か!」  とカモカのおっちゃんは、お年の知れる古語で叫んだ。 「シッ、大きな声したら運転手さんにきこえるやないの、いえ、いややいうてるのとちがうわ、ほんと、ごめんなさい、この次はきっと、ね」  失望と落胆で目の前が暗くなったおっちゃんを下ろし、そのままタクシーは彼女だけを乗せて走り去ってしまう。 「やっぱり、逃げられたのよ、どだい女にもてるはずない中年者が、身のほど知らずに浮気しようとするからよ。奥さまひとりを守ってりゃ、いいんです」 「いやしかし、女房《よめはん》でもえげつないもんでっせ」  おっちゃんはこのほど、古女房を連れて湯治場へいくという前代未聞の挙《きよ》に出た。いきたくていったのではない。人のすなる女房孝行をわれもせんとて、義務感、責任感で大奮発していったのだ。  古女房はさすがに機嫌うるわしく、年甲斐もなくはしゃぎ、それにつれておっちゃんも木石ならぬ身、平素は女とも思えぬ、たまたまズボンの代りにスカートはいてるだけというような、女の数にもはいらぬ古女房が、意外にイケルと見えてくる。久しぶりの妹背《いもせ》のちぎりに胸おどらして、いそいそと寄ってきたおっちゃんを、女房は鼻であしらい、一蹴し、 「今日はダメ、さっきアレになったの、シッシッ」  と追い払ったという。 「ほかにいいようもあるやおまへんか、まだしもホステスの方が、商売だけにうまいこといいよる」  とおっちゃんは慨嘆し、私はそれで、「最上川」の古歌を思い出したのであった。しかし、これはおっちゃんを追い返した当のホステスではないが、私の知り合いの、例の気のよいホステス、 「そりゃ、しょうがないわ」  といっている。 「ハッキリわかれば、この頃は遅らせたり早くさせたりできる便利な薬があるのやから、前以て服《の》んどきますよ。でも指折り数えて大丈夫やろ、というときが一番危ない」  のだそう。 「サギよカタリよといわれちゃ立つ瀬がないわ。だってこっちかて、アッと思うのよ。不吉な胸さわぎしておトイレに立ったら、アレでしょ。第一に考えるのは、しもた、申しわけない、あの人気の毒! ということばかり。あたしこう見えてもリチギなのよ、どうして納得してもらおうかと、身も世もあらぬ思いがするわ。消え入りたい思い。だってあたしがいいかげんに手ぬかりしたのが無責任やったんやもん……」  と、このへんが、気のよい所以《ゆえん》、 「そんでね、ベッドヘ戻ると、男の人は口笛なンか吹いて服ぬいでハンガーにかけて、ホテルの浴衣に着更えてるやない。もうそのイソイソして、うれしそうな顔見たら、ますます申しわけなくてね、うつうつとべッドに腰かけてたら、男のほうは気が変ったんではないかと、一生けんめい機嫌とったり、おべんちゃらいうたり、——ええ人やなァ、思《おも》たらよけいすまん気がして、いえんようになって、……女かて、そら、気ィ使うのよ」  といっている。  しかし、カモカのおっちゃんは、そういうデリケートで気のよい女に会ったことはそれ迄の人生には一ペんもないといっている。おっちゃんのようにデリケートな男には「シッシッ」と追い払う女がえてしてつくもので、デリケートな女には、日の丸だろうと何だろうと「雨天決行」する奴がつくものだといっている。それが人生の組合せだといっている。  早  熟  私は少女時代、ヒトより早熟なせいか、ピクッとくる言葉がじつにたくさんあった。  早熟というのはもとより、性的早熟という意味である。  しかし考えてみるに、少年少女というものはみな、性的に早熟なのではないか。昔の少年少女はそれを恥じて必死におしかくしているから、みんなそれぞれ、自分だけなぜこんなにいやらしく生まれついたのだろうと、悩みもだえていたのかもしれない。  ことに昔の女学生なんて、そんな告白は気《き》ぶりにも出さない。天使のような声で、リーダーを読んだり、「君よ知るや南の国」や「野|薔薇《ばら》」を歌ったりしているのだ。何かあるとキャッキャッと笑いさざめいて身を二つに折って涙を出してくるしがり、いつまでたっても笑い止めない。転任する先生があると、そんなに好きでもないくせに、校門の外まで追いすがっていっていつまでもハンカチをふったり、ヨヨと泣きくずれたりする。校長室へはいるときは、掃除当番のときでさえ、手がふるえてしゃちょこばって、緊張している。そのくせ教室で先生の禿あたまに糸屑でも落ちてきたりすると、もう一時間、授業にならない。ワー、キャー、ワー、と一クラス笑い苦しんで、中には胃けいれんなどおこして医務室へ運ばれる子も出るしまつ。  そういう女学生が、ひとにこそいわね、それぞれ、「気になるコトバ」があったのだと思う。昔の女学生はみんな、オトナの小説——(昔は家庭小説《ヽヽヽヽ》なんてのがあった)をよく読んでいた。吉屋信子、菊池寛、牧逸馬、加藤武雄、竹田敏彦、久米正雄、小島政二郎、片岡鉄兵、武田麟太郎なんてのを、愛読していたものである。現在の中間小説にあたるのもあれば、しゃれた都会派風のもあったりした。 「関係」というコトバが授業中に出てきて、教室中、ワーっと黄色い旋風が巻きおこったこともあった。昔の女学生は、「関係」というコトバで脳卒中をおこすようなショックを受けていたのだ。「貞操」とか「純潔」とかいうコトバも、ショッキングであったが、こいつをまた、老校長がおごそかに発音するのだ。 「貞操を守ることが、女子の徳目中、第一の、ものでアリマス」  ときびしくいい、ずーっと講堂中、全校生徒を見廻す。  すでに我々女学生は、貞操とかミサオとかいうものの何たるか、守るということの何たるかは、おぼろげにわかっている。これは先生が教えてくれたのではない。友人同士、耳打ちし合うのだ。おぼろげだから、よけい、あやしい。うろんくさい。何となく、想像するだけ。しかし実体はどうしてもわからない。そのわからない具体的部分は、菊池寛や竹田敏彦や小島政二郎の小説で補ってつづり合わせる。ことに時代小説なぞ読むと、ふんだんに出てくるから、大いに参考になる。女学生はだまっているけれども、雲助が旅の娘を手籠めにするような小説もちゃーんと読んでるのである。 「もし貞操を犯されるようなことがあれば、死してもこれは拒まねばならん」  老校長はいっそうきびしくつづけられる。 「昔の武家の女性は、汚されるよりは死を選んだものであります。かほどに、さように、婦女子の貞操は大事である。辱かしめられるよりは死を選ぶ、この凜冽《りんれつ》たる気概こそ、大和《やまと》撫子《なでしこ》の心意気であります」  女学生としてはほんとにもう困るのだ。犯すとか拒むとか、汚されるとか、辱かしめられる、などというコトバは、やわらかな乙女心に、びんびんと利きすぎるところがあるのだ。関係する、抵抗する、挑む、みな同じ、きいただけでマッカになってしまう。恥ずかしくて目から涙、口からよだれが出てくる。  女学生はみな、身を堅くして、強いて無表情な顔をしてきいているが、頬はほてるし、心臓は躍るし、しまいには、いってる先生まできらいになり憎らしくなる。  ワザと知ってて、あんなコトバ使いはるのんとちゃうか、と憎んだりする。  先生大きらい、大きらいな言葉! と思いつつ、そのコトバが出るたんびに、みんな、ビクンビクンと動揺し、それを友達にけどられまいとして、硬直する。而うして女学校の校舎全体に、ボワーッと、上気したピンク色のモヤがかかってしまうのである。  こんなことから考えると、じつにオトナというものはいやらしく、平気で、鉄面皮で、心臓つよく、厚顔無恥の動物であると申さねばならぬ。 「今はどうでっか、やっぱり、犯す汚す、関係する、抵抗する、なんて言葉にピクンピクンときますか」とカモカのおっちゃん。  この年ではそれよりも「長風呂」の原稿料を値上げしようなどといわれるほうが、ピクンとくる。男はどうか。 「僕の古い友人に野中という男がおりますが、こいつが中学生のころ、やはりピクンとくるヤツがあったそうです」 「どんなコトバですか」 「いや、これは歌ですわ。例の女学生愛唱歌の一つ、シューベルトの『野薔薇』ですな、この歌詞の一部を、ごく発音の似通ったある言葉にはめ替えると、わが友、野中を七転八倒させた歌になります。歌《うと》てみますか?」  私は歌ってみてくれるように頼んだ。 「わらべはみたり  野中の ○ラ  清らに咲ける その色|賞《め》でつ  飽かずながむ  くれない匂う  野中の ○ラ」  私は大笑いした。野中君こそ災難だ。 「この歌を歌われると野中は泣いていやがったものです。また、中学生の替歌をきいた女学生はまっかになって、以後誰もよう歌わなんだ。それにくらべ、おせいさんときたら中年女の悲しさ、平気で笑いよる」  とカモカのおっちゃんはいう。しかし私は思うに、中年者は恥ずかしさに於ては鈍感になるが、おかしみの反応度はそれに反比例して鋭くなるのである。もはや「犯す」も「辱かしめる」も私を悩ませないであろう、しかし「野|バラ《ヽヽ》」の歌は齢《よわい》を加えるにつれ、私をなつかしく、おかしがらせるであろう。  混浴に於ける考察  私は風呂好き、温泉好きであるから、温泉へいく旅行は大好きである。しかし大浴場の大混浴というのだけはどうにもいただけない。いつぞや指宿《いぶすき》の混浴温泉へいったが、どうにも入る気がしなかった。  そもそも温泉というのは、こんこんと湧き出る清らかな湯に身を浸して汚れを浄め、心もともに邪念を払い、而して天恩ゆたかな日本の国土に住む幸せをしみじみ感謝しつつ、人生のクリーニングをするところに眼目があるのだ。窓から緑の山々や渓谷の木々を目にしつつ湯にひたり、よくもはるばるやってきた甲斐があったと静かな喜びをかんじるところが温泉の最大の恵みであるのだ。  それを混浴場へいくと何ですか、男たちが飢えた阿修羅のようにギラギラ目を光らせて右往左往している。「湯煙りで見えやしません」とすましている人もあるが、それはずうっと向うのこと、手近はマル見えで、湯船に一列に浸って通る女をねめ据えていられたりしちゃ、気が弱い女は卒倒する。  やっとこさで「婦人専用」とプレートのかかった片隅の浴槽へ逃げこんで、じっとつかっていると、そこへも一杯機嫌のおろかな男ども(男というのはマッパダカでいると、みなおろかに見えるもんだ、ともかく何とも不恰好だからね)がどやどやなだれこんできてドボンドボンとしぶきをあげて入りこみ、もうわずらわしいといったらない。 「ここは婦人専用です」  と注意してやってもそ知らぬ顔で近寄ってきたりして、湯から上がることもできない。しかし若い男は何といっても一対一になると恥ずかしがりだから、一人が出ると次々にあがっていって、一人で「婦人専用」へ入りこむ奴はないが、そこへくると厚かましいのは中年男で、ひとり、のっそりと身を滑らして入りこみ、悠々と手拭いで顔をふいたり、タオルをあたまにのっけたり、こういう奴に、「婦人専用です」といっても一向あわてない。 「ああ、さよか、こら憚《はばか》りさん」  などと悠揚迫らず、ナゼカたいがい大阪弁だったりして、同郷人として私は赤面せざるを得ぬ。中年者はやおら周囲を見廻し、中婆さんのところは視線を走らせ、老婆には一ベつもくれず、若い娘に目がいくと、とみこうみ、じーっと眺めていたりして、その厚かましさに私はあたまにきて、湯をぶっかけてやりたいくらい。  いや何も私は、私の方を一ベつもしてくれなかったから怒っているのではないのだ。ともかく、私のように温泉そのものを楽しんで、道場か何ぞの如く、身も心も浄めようなんて思っている人間から見ると、混浴なんて人間くさいのは、温泉の邪道の最たるものであると、断ぜざるを得ないからだ。  そうじゃないですか。  浮世の人間にあきあきし、くさくさして山の中や海岸の温泉へ逃げて来ているのに、何が悲しくてまた男の視線に気を使ってビクビクしたり、隠したり、避けたり、見るような見ないような、よけいな苦労をしなくちゃならんのだ。 「しかしこの頃の若い娘は、ビキニなんぞ着て海岸歩くのに慣れてるよって、あんがい混浴も平気とちゃいますか」とカモカのおっちゃんはいう。「あんな海水着、もう半分、マッパダカみたいなもんやさかいね」 「若い娘はそうかもしれないが、中年女はそういうわけにはいかない」と私は重々しく答えた。「若い娘はまだ生まれたまンま、というところがありますから、恥ずかしいと思う感情が未成熟です。若い者ほど恥ずかしがる、というのは、女の場合、あてはまらない。それは年経て、秘めごとの何たるかを知り、羞恥心も成熟した中年女ほど、羞ずかしいと思うものです」 「しかし女がそう思うほど、男は気にしてへんかもわからへん、これ見なさい」とおっちゃんは、新聞を指した。  その投書欄に、こういうのがある。  十九歳の少年工員、海水浴でおぼれかけた娘を救ってやったら、娘は礼をいうどころかこわい顔をして「助けてなんて頼まないのに、あんたエッチね」といったというので、少年はあたまにきて「この恩知らずめ」とどなりつけたんだそうだ。 「こんな娘がいるのかと思うとなさけない」と少年は投書をそう結んでいる。 「イヤ、たしかに女てそんなとこがありますな」とカモカのおっちゃん、「ツワリか宿酔《ふつかよい》か知らんけど苦しんでる女の子に、どないしました、と手ェかけたら、キャッ、いやらしい、スケベ、エッチ! と目を吊り上げていう。何を考えとんねん、エッチはそっちやないか、男見たらみんなエッチや思う方がいやらしい。自意識過剰もええとこです」 「いやその、海水浴の話はともかく、混浴へいくと、たしかに男はエッチだと思うよ」と私はいい張った。「女が向うむいて体洗ってるのに、わざわざそばまでいって石鹸さがすフリをしたりね、そのついでに、ナメるようにこっち見ていく。足が滑ったふりをしてよろけてつき当る拍子にさわろうとしたり、いやもう、男という男、オール色餓鬼みたいな|あんばい《ヽヽヽヽ》、女を見れば、さわることしか考えてないみたい」 「それは女の思いすごしです。女という女は、男がいつも飢えてるように思うらしいけど、そう思いこんでるのが女のエッチなところ。男はあんがい、公明正大で、エッチなことなんか、これっぱかしも考えてないときが多い。海水浴で女が溺れてる、助けようとする、石鹸がすべっていく、あわてて拾おうとする、邪念悪心は一つもおまへんよ。それをわるく勘ぐって何でもエッチにとろうとする所が、女のエッチな所以《ゆえん》」 「しかし、ですね……」 「いったい、そない、ワイワイいうて大事にするほどの物を、女がもっとんのかいな、よう胸に手ェあてて考えてみい」 「それは、あの……」 「男が見てチビるとでもいうのんか、いったいそんなリッパなもんが女にあるのか、女はすぐ胸とアソコをかくすけど、乾ブドウみたいに萎びた胸が何ぼのもんです」 「あの、それはですね……」 「それに下かて、ええかげんな海藻のこびりついた腐れ鮑《あわび》があるだけやないか、大層にいうな、というねん、大層に」  スミマセン。  男の品さだめ  女が数人集まって、どんな男がきらいかと品定めしていた。  どんな男が好きか、というのではないところがおかしい。女は観念、抽象は苦手であるから、具体的な事象、即物的な考えしか思い浮かばない。好き、きらい、でいうと、きらいな男というのはあるが、好きな男、という理想はないのである。もしそれ、誰か惚れた男でもできると、それが好きな男のタイプになるのである。そこが男と女のちがう点で、女には男における「永遠の女性」のような、つまりベアトリーチェみたいに絶対的な理想はないのである。「永遠の男性」なんてきいたことがない。  きらいな男から消去法で消してゆくと、あとには、好きでないまでも、がまんできる男がのこる勘定になる。  集まる女、水商売のたぐいのご婦人が半分もいたせいか、「ケチな男」が筆頭に上がった。  女の子に奢《おご》るときでも会社のツケに致したり、領収書をもらったりする。バーのママさんの曰くに、ある男に鮨屋を奢ってもらったのはいいが、鮨屋の勘定を立て替えさせられた。それをママさんの店のツケにして、会社へ請求するんだそう。 「そういうのはケチとちがうわね、|ド《ヽ》ケチやわ」  と女の一人がいい、男のケチも時により美徳であるが、こんなのはあまりといえばせつない、女の気持も察して頂戴、ということになった。  せつないといえば、無智無教養な男もせつないが、学識卓見にめぐまれたかしこい男が、何となく薄よごれてきたないのもせつない。どんなに中身はリッパでも、大天才でも、女はフケ頭や爪の黒いのや垢光りの服はせつないのである。これで見ても女がいかにあさはかで表面の現象に心を奪われ、物ごとの本質を見ぬく能力に欠けてるかがわかる。しかし、せつないものはせつないのだ、かんにんして頂戴。  男の尻《けつ》の穴の小さいのもせつない、という意見が出た。女が自慢する、いばる、ウソをつく、ごまかす、それを片っぱしから見ぬき、いちいち自慢の鼻を折っぺしょる、指摘して鼻をあかす、たしなめて白けさせる、つまり女に張り合おうなんて了簡は、男のすることじゃないよ。  女はやっぱり男に夢も期待もあり、男は腹が大きくて人間のスケールがちがってて、一段上の種族だと思いたいのだ。男は女のウソを見ぬいても、知らん顔して乗せられてくれるぐらいの大きい度量がほしい。女の自慢を笑ってききのがしてくれるだけのゆとりが望ましいのです。それを何だ、いちいちとりあげてせせら笑うとは何事ダッ! 「そうか、そうか、よしよし」 「なーるほど、ふーん、そうか、そうか」  と感心してみせてくれたらええやないか、甘やかしてくれてもええのんとちがうか。自慢したいもんは、させてくれたら、ええやないか。  学校の先生みたいに、いちいち、目くじらたてて咎めだてするなというのだ、バカモン。何のために女より余分なもんをもってるのだ。(これは余分な話)(しかし、男は余分なものをもってるからといって、女よりいばってるんだろ) 「そういう奴にかぎってさ、いざというと度胸がなくてね。いや、尻《けつ》の穴が小さいからビビるのかもしれんけど、ホテルヘ誘うときは、ちっともてきぱきせえへんのよ」と女の一人がいう。これは陽気な若いホステスさんである。元気で短気な女である。 「何や遠廻しにさ、グズグズいうて、ほのめかしたり、しねくねしたりして、しまいにこっちがイライラして気ィがおかしィなってしまう、はいるんなら、はいろうやないの! とどなりとうなってね。なんし、ウチは気が短いから」 「そいでどうすんの?」と私。 「結局、はいってしまう」  バカ。それが向うの戦術だよ。気短かで短慮な女はソンをしてる。  そういう男は、ホテルヘ入っても女中さんに何の指示もせず、何か煮え切らず、気短かホステスはまたもやイライラして気がおかしくなり、自分が指図して洋間か日本間か注文し、お泊りかご休憩かを指定して、しまいに、 「何や、自分が誘うたみたいになって、あほらしい」ことになるのだそうで、こういう男も、男としてはせつない、ということになった。 「しかしそれは、その男がホテル慣れしてへんからとちがうかなあ」とこれは別の声、これはベテラン婦人記者であるが、四十六のうば桜ながら、みずみずしい美人、 「男に、あんまりホテルで|てきぱき《ヽヽヽヽ》されるのもせつないもんよ」という。  ホテルヘいこうといわれれば、たいがいの女は拒むか、拒む|ふり《ヽヽ》、ためらう|ふり《ヽヽ》、迷う|ふり《ヽヽ》、悩む|ふり《ヽヽ》、羞ずかしがる|ふり《ヽヽ》、怒る|ふり《ヽヽ》、拒みきれない|ふり《ヽヽ》、強いられて押しきられ負ける|ふり《ヽヽ》をする。それを、ものなれた|てきぱき《ヽヽヽヽ》男は何もかも見こしていて、イヤー、マアマア、と背中を押して女をホテルヘ押しこみ、女は好みの演技をするふりもない。男はしごくてきぱきと|こと《ヽヽ》を運んで、女中さんに指図して、 「あの、二階の端のビーナスいう部屋あるやろ、バラ風呂の、ウン、そうそうあそこ、あそこへ頼むわ」  みずから女中さんより先に立って歩き、もとより女ははじめての場所なのに、男は口笛なんか吹いて部屋へ入るなり洋服だんすに突進、ハンガーに服をかけてもうネクタイなんかほどいていて、女中さんが風呂の湯を出してる間に、温度調節を手まめにやり、テレビをつけ、浴衣に着更えて、乱れ籠に靴下なんかほうりこんでいて、電気スイッチなどもはじめての部屋はわかりにくいもんであるのに、サッサとこまめに消して、枕元のあんどん型の灯なんぞつけ、ドアをしめる女に、 「まだあかんで。茶ァもってきよるから」  などといい、 「あ、もう風呂、ええやろ」  などと身を起してバスの蛇口をしめにゆく。 「こんな男もせつないわァ」  と女がいい、それはそうやろと、一同、納得して、男って、キライ! ということになった。  きらいと好き  私は男がどんな主義主張をもっていようと、男そのものと切り離して考えるから、男の思想は問わない方であるが、ただ一つ、天皇好きの国粋派の、というのはいただけない。これはハッキリ、キライ。  四十すぎてご仁徳がどうの、愛国心がどうの、どうかするとそれを考古学や歴史にまでむすびつけ、おのれ一人の嗜好でいればいいものを、やたらと声はりあげて他人におっつける。四十にもなって乳離れしなさすぎるではないか。  人はまさかそんな男がいるか、と思うかもしれない、ところがいますよ、これが。大正フタケタから昭和ヒトケタ、それも昭和二年ぐらいまでの奴に、たいへんな天皇制支持者、というより天皇ファンがいて、私をびっくりさせるんだ。  大みこころ、上御一人、かしこきあたり、万朶《ばんだ》の桜、汨羅《べきら》の淵、そういうことはいい年して早く卒業しろ、酒を飲んで唱う分にはいいけれど、シラフのときまでそれにうつつをぬかし、ひどい男はモノに書いたりする。大体、そのたぐいのことは男根が勢よく猛々しく怒張して、カッとなった金時《きんとき》みたいな青年将校のいうことで、あたまがうすら禿になりボテ腹が出て、立つべきものも立たぬ提燈爺いのいうことじゃない。  私はめったにあたまに来ない女であるが、第二次大戦や原爆経験国という、未曾有の歴史をストンととりおとして、昭和初年の歴史に直結する単細胞の男だけは、あたまにくるのだ。  あたまにくると、思想だけでなく、男そのものまできらいになる。こういう手合い、旧陸軍士官学校出身だけでなく、意外とモノカキにもいます。  ちょっというと目つきがヘンになって狂信的になって一人でしゃべりまくり、もうほんとにいやだ。だって中年男のよさは、そんな方面にも理解はあるけど、かといって全面的に肩入れもできぬ、その中途はんぱのフラフラのよさにあるんだもの。  こういう狂信一途の輩《やから》に比べると、まだしもポルノを掲載してお上のお咎めを受け、書類送検される阿呆な男の方がマシ。リッパ。  ついでにいうと、次にきらいなのは、豪傑笑い、力こぶ、筋骨隆々を誇示して、胸毛をわざと見せる、こういう男はみんなダメ、——いや、私の場合。  私はこういうのはにが手なんだ。それからして一見豪傑風、一見壮士風、みんなだめ。  そういうハッタリ男というのは、えてして弱い。何が弱いか。弱いものは弱いのだ。何かしらんけど。  こういう筋骨隆々にかぎってイザその場に及ぶと、向うむいてコソコソして焦ってる|くち《ヽヽ》である。イザ鎌倉というときに概して役に立たぬのが多い。  反対にオシャレ男も、私はだめなのだ。  高価《たか》い服を着て、|もみあげ《ヽヽヽヽ》に意匠を凝らし、オーデコロンをふる男。  ツケ胸毛をつけ、頬紅をぬる男は論外。  かつらは、商売で仕方ない人はのぞき、あとは論外。  長髪は、これは一概にいえない。|ニン《ヽヽ》に合ってればお目こぼしにあずかることもある。  あたまのよすぎるのはきらい。  わるすぎるのもきらい。  右二つは究極に於て同じである。ほんとうにあたまのいい男は、他に圧迫感を与えるほど誇示しない。  それはしかし、男の性格につながるであろう。  気がよくてやさしい男なら、いかにあたまがよくても、自分のいる場所をたえず測定して平衡感覚を保つから、出しゃばらない。  サギ・カタリは論外として、人のわるい男はきらい。  敏腕、辣腕《らつわん》、やりて、出世頭、目から鼻へぬける奴、要領のいい男、腕っこき、切れ者、凄腕、——みんな、きらい。こんな男と寝ようとは思わない。(向うもそういうか)  |007《ゼロゼロセブン》みたいなのはいや。  かといって、あんまりトンマで、することなすことヘマばかり、貧乏クジひいてそのあげく世を拗《す》ね、ひがむというのもきらい。  女の母性本能をアテにして、ヒモを夢見てるのもきらい。  色好まざらん男は、玉の盃底なきが如しとはいうものの、あまりに好色多淫は興ざめ。  高雅|清廉《せいれん》が好ましいとはいうものの、何をいっても通じないというトボケぶりでは白けることおびただしい。  女にいい寄られてるのか、ソースをとってくれと頼まれてるのか、さっぱりわからないような色けのない朴念仁《ぼくねんじん》では、がっくりくる。 「そうきらいや、きらいや、いうてたら好きな男はあれへんやろ」とカモカのおっちゃん。  それはありますよ。誠実な男、正直、まじめ、りちぎ。これ一ばん。  それから何でもほどよき程の中庸の男。  金も才能も、容貌も年齢も、まん中ぐらいの男。  やさしそうで薄情そうで、疲れた風情で強そうで、そこの情趣もまん中ぐらい、要するに平凡なんが目ざわりでなくてよろしい。 「しかしおせいさんのいうのをきいてると、それは情人《おとこ》というより、亭主の条件とちゃうんのんか」とおっちゃんはいう。  それはそうかもしれぬが、しかし実のところ、私は亭主ではみたされぬ、男の好もしいある動作にあこがれてるのである。それは何かというと、男がネクタイをほどいたり(あるいは結んだり)ワイシャツのボタンをはずしたり(あるいははめたり)する恰好がとても好き。とくに、ほどいたり、はずしたりするときのほうが好き。ウチの亭主はもう全くの野人で、大のネクタイぎらい。いつもゴルフシャツだかポロシャツだか着て、上にぼろかくしの白い診察着をひっかけておりましてね。私は、男がネクタイをほどき、シャツのボタンをゆっくりはずすのを、ベッドに坐って見てるときの女の心ときめきを経騒したことがないのである。 「イや、そら簡単なもんや、やりまほか」  とおっちゃんはシャツのボタンにすぐ手をかけるが、バカ、そういうオッチョコチョイ男がやって見せたって、どうってことないのだ。  ファウンデーション 「秋めいてきましたな」  とカモカのおっちゃんがやってきていった。そこで私は、 「秋来ぬと——」  と胸を張り、鼻の穴をふくらませて朗誦する。 「目にはさやかに見えねどもォ……風の音《おと》にぞおどろかれぬるゥ……」 「おや、うたい上げましたね。秋は男には酒の美味《うま》い季節ですわ、これがうれしい」 「女は、白粉がよくつきます」  私はいった。夏のあいだ荒れてキメが粗くなっていた肌も、秋風と共にひきしまってしっとりして、われながら白粉のツキがいいように思われる。 「へえ、おせいさんでも化粧する?」  おっちゃんが驚くのもむりないが、しかし私はこれでも人前に出るときはしてるのだ。ほんとうは邪魔くさくて化粧などしたくないのだが、女が素顔で人さまの前に出るのはいけないと思う。美しく見られたがっている、男に気に入られたがっている、と表現するのは、これは女の礼儀である。  化粧していることは、女の弱点である。  弱点を見せるのは人間としてあらまほしく、好ましきことである。——いやべつに、そう深く考えてやってるわけじゃなく、習い性《せい》となって化粧する。しかし本来、その時間もなく好きな方でもないから、邪魔くさいなァと思う心持はなくならない。  まして香水などは、つけないというより忘れてしまう。高価な香水を頂いても、使い忘れて蒸発させてしまったりする。  ついでにやけくそで本音をいえば、「女の|すなる《ヽヽヽ》」下着の掟もろもろ一切、もう私には邪魔くさくて煩わしくて仕方がない。  ファウンデーションというたぐいのすべて、ブラジャー、ガードルの身を緊《し》めあげる苦しさ、兵隊が重装備で四キロ走らされるのとどっちが|しんどい《ヽヽヽヽ》か、まことに要らざる苦役だと思うものだ。  しかも兵隊ならアゴを出し汗を流し顔を苦悶にゆがめていてもいいのだ。いよいよ、いけなくなればバッタリ斃《たお》れて落伍すればすむじゃないか。しかし女が顔をゆがめられますか、いかに窮屈でも苦しくても、胃がむかついても、ぎりぎりとSMごっこよろしく緊めあげられた下着を装着したまま、ニッコリと笑い、優雅な身ごなしでねり歩き、人におじぎし、お愛想の一つもいわなくちゃならんのだ。うわあ、しんどい、もうダメ、と思ったって、その場でバッタリ斃れるわけにはいかぬ。あくまでニコヤカに愛嬌をふりまきつつ家へ着くまでもちこたえなければならん。自分の部屋でバッタリ、斃れてのち止む、ということになる。女が、ブラジャー、ガードル、ナイロンのストッキングをとったときの爽快感は、男の知らぬ至福の境地であろう。  この頃はカツラというものまであるので、こういうのをかぶっているとあたまがむれて、暑くるしい。人によっては付けマツゲなんてのもあろう。入れ歯もあるかもしれない。  なべてそういうマヤカシのたぐい一切、私にはもう、ふるふる、いやになってきた、何を好んで緊縛《きんばく》趣味に堕《お》ちなくちゃならんのだ。  その意味から、指輪、イヤリング、ほんとうはきらい。指輪は夏やってると暑い。ネックレスも汗ばむ。冬は冷たい。いいことはちっともない。  まだいえば、靴もいやだ、ほんとうはハダシで歩きたいが、やや妥協して、ワラジぐらいで歩きたい。すべて体をくくり規制するもの、余分なものは本来、あらずもがなのマヤカシであるのだ。  マヤカシといえば、ナイロン製品を女性の下着に使うのも、これもいと怪しきことにこそ。  ナイロンストッキングなんてものは、夏の暑くるしさたとえん方《かた》もなく、冬の寒さはいわずもがな。パンストなんか夏はいてたら、燃え上がりそうになる。  ナイロンパンティなんか色とりどりあって薄くて蝉の羽みたいで、見てる分には美しいのであるが、あれを使うと衛生によろしくない(そうだ)。ナイロンのパンティは洗えば汚れをとどめないで元通りきれいになるが、その代り、汗も吸ってくれない。汗を吸わないで下着が何になるものか。誰に見しょとて花模様やピンクやブルーやとパンティに数奇《すき》を凝らすのだ。世には心得ぬことのみぞ多かる。  さらにナイロンのネグリジェなるものがある。  昔、「ダイヤルMを廻せ」という映画で、グレース・ケリーが、ナイロンの透けるナイトガウンを着て電話をかけるシーンがあった。ダイヤモンドの硬質の輝きを思わせる美女のグレース・ケリーが、天女の羽衣みたいに軽く薄く透ける衣を羽織っているのは、女心をときめかすものだった。そのころの日本にはまだ、ナイロンのネグリジェは普及していなかった。  いまは天女の羽衣にしろ、蝉の羽にしろ、思いのままの美しいナイロンネグリジェがちまたに氾濫している。素肌にひっかけてこれ見よがしに遊弋《ゆうよく》したら、男どもの目をそばだたせるかもしれない。悩殺するかもしれない。  うすものに透けて見える肌は、実際以上に美しい玉の肌に見せるかもしれない。花嫁たちが神聖な初夜の床に、ナイロンのネグリジェをたずさえていったりするのも、美しいが上にも美しく見せようという女らしい心づかいのためであろう。  しかしそれがマヤカシの大なるものだと私は思うのだ。  あんなものを実際に着て寝たら汗ぐっしょりだ。胸と胸の間に汗がたまって、「わが胸の底のここには」涙の谷ができるのだ。あれは実用でなく、しばしがほど(ぬぐまでの間)着てうろつくためのもの、するとやはり花嫁用かしらん。  総じて女にまつわる一切のものは、かくの如くまやかしが多い。私はできるだけ原始素朴な身じまいをし、真実に近づき、女仙人のごとく簡素に生きたい。男はいったい、ごてごて飾りたてたのと、女仙人の簡素といずれを好むであろうか? 「さァ」  とカモカのおっちゃんは盃を置いてしばし考え、 「わるいけど、男は、女の身につけるもんなんか見とらへんよってね。男は女の着るもんを透してハダカしか見とらへんのだ」  男の見当はずれ  男には修養の足らぬ人間が多い。私は若い頃事務員をしていて、つくづく、思い知らされた。  会社で面白くないことがあると、男は、すぐふくれっつらをする。  声がとンがる。好戦的な言辞を弄《ろう》する。  ムーとした顔で、関係ない人に対してもあたりちらすのであります。  家庭へかえれば遠慮する人間が居らぬこととて、ひどい奴は女房をなぐる、食卓をひっくり返す、モノを投げる。而《しこ》うしてわめく。 「男は外へ出れば七人のテキがあるのだ、男の苦労が女にわかってたまるか!」  ああそうですか。  しかし、女には女の苦労があるのよ。 「バカモン、女に苦労があってたまるか、三食昼寝つきの結構な身分で、人なみなこというな!」  しかし、夜ですよ、あァた。夜の昼寝のほうは、いろいろ人しれぬ苦労があるわよ。 「ナヌ? 回数が少ないというのか、会社のタナカにきいてみろ、サトウにきいてみろ、オレが一ばん多いぞ、文句があるかというのだ、文句が。オレは男のするべきことはちゃんとやってるのだ。文句はいわせんぞ」  そうじゃないのよ、あァた。……  といいかけて、女房たちは口をつぐみ、みんなかげで、こそこそ苦労ばなしになる。  女たちにいわせると、どうして男たちはああもぶきようなのだろうという。  たいてい、ぶきっちょ。へたくそ。  女の心理も生理も、てんでわからない。  回数が多けりゃいいってもんじゃないのだ。  はじめの頃は、世なれない新妻だから、女から注文を出すなんて思いも及ばない。「たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことは未《いま》だせなくに」——という境地を超えて、もう少し、何とかならないものかしらと思うようになる。  しかし何ともならない。  男ははじめから、自分のやりかたがわるいなんてつゆ疑っていない。だから、女が羞かしいやら、何かわるいような気がしていい出しかねているのもわからない。何でも自分本位で、自分さえ満足してりゃ女の方も満足してるように思う。しかし、そういうわけにいかない。  世の中の男たちは、そういうとき、女という女、みんな立ち上がって亭主の非を鳴らし、ああせいこうせいと一知半解の性的情報を、|う《ヽ》のみにして男どもの鼻づらとってひき廻すと思うかもしれない。性的イニシァティブをとってわが思うままにむさぼろうと狂奔《きようほん》すると思うかもしれない。  しかし女の中にはまだかなり多く、たとえ夫婦でもそういうことを口にのぼせてあげつらうのは、ハシタないと思っている女たちもいるのだ。これは社会の階層や、個人の教養学歴には関係ない。  そういう女たちはあきらめてしまう。男というものは、ぶきようなものであり、自分本位のひとりよがりで、へたくそなものだと思ってあきらめる。男はそんなことは知らないから、「文句があるか」といっていばったりする。  女だって、思ってることをそのまま口に出すのはハシタないと、じっとこらえている人間もいるのだ。男は信じないかもしれないけど。  そうして男が見当違いのことに汗をかいているのに、タメイキついたりしている。「そことちがうけどなあ」と思ったって、いうことのできないデリケートな女もいるのだ。  しかるに男というのは、たいがいデリケートではないから、女が口に出しやすい雰囲気をつくってくれない。 「そうでしょ、たいてい男というものは自分がよければ女もいいと、なぜか思いこむでしょ」とカモカのおっちゃんにいったら、おっちゃんは、小首をかしげ、 「それはまァね」 「そういうとき、男は何というか」 「ええやろ、と女にききますな」  それがいけない。そういうときわるいとはいえない。汗かいてがんばってる男に、あまりよくないとありのままにいうことは、情《じよう》において忍びない。気のやさしい女は、お愛想さえいったりする。  すると男はますます、いい気になる。女が心中タメイキついてあきらめてるのに、てんであらぬ方ヘボールを投げたりする。そうしてひとりで喜んでいる。じつにやりにくい。  見当はずれというほど悲しいことはない。  第三者がみてるとユーモラスだが、本人は悲しい。(尤も、ユーモアというものはかなしいものだ)  あんまり悲しくて笑ったら、男は女を喜ばせたと信じてハッスルして有頂天になる。  なさけなくなって泣いたら、男は女を泣かせるほどの腕になったとうぬぼれて、ますますあらぬ方向へ精出して励む。  どっちへ廻っても男の見当はずれは度しがたい。  百戦練磨の女なら、どこが、どのくらい見当はずれだと指摘できるのであるが、経験乏しい素人の主婦や女たちにそれがわかるはずなく、彼女たちは寄るとさわると、 「何となく、ピントはずれで……」 「でも、こんなものかと思うけど……」  なんて、大和撫子らしく、つつましくあきらめてるのだ。 「しかし、それでは夫婦和合できまへん、やっぱりちゃんというてもらわな」  とカモカのおっちゃん、 「やっぱり向き向き、好き好きということはあるもんやし、ああでもないこうでもないと双方、あんばいすることが、和合の秘訣ですな」  というが、そこが男の修養の至らなさで、たいてい気短かのわがままが多く、ヒトのいうことに耳傾ける度量のあらばこそ、だいたい、元々男がそういうたぐいの人間ばかりなら、タメイキついて亭主の見当はずれをあきらめる女房はいないわけだ。 「ほんならどうしますねん」  とおっちゃんはいうが、女としてはどうしようもなく、汗かいて働いてる男に、「イヤ、ご苦労」と思うだけ。  パッ、サッ、スカッ 「入れ墨を 消す気になれば 夜《よる》が明け」  という川柳があるそうである。入れ墨というのは、腕なんかに、たとえば、 「カモカいのち」  とか、 「おせい命」  なんて彫ってるアレである。この際の入れ墨は背中の金時や自来也ではないのだ。ナニがすんだあとは、愛を契ったはずの入れ墨さえ消したいくらいだという意味らしく、しかし私は女ゆえ、使用前、使用後のちがいはよくわかる。そんなにちがうものだろうか。 「すんだあとは入れ墨どころか、女まで消しとうなります」とはまたカモカのおっちゃん、えげつない奴。 「ではたとえばお金なぞは事前にもらっとかないと、あとではもらえなくなる恐れがありますね」と私は女の側に立っていった。 「まあ、そうですな。前やったら二十万円でも払うが、すんだあとは二十円でも払いとない。こっちがもらいたいくらいや」 「ようそんなこと……」 「朝見たらオバケみたいな奴で、側でいつまでもいぎたなく眠りこんでるのん見たら、枕、蹴っとばしとうなる、やった金も取り戻したい」 「そんなこといって、またしばらくすると、恋人のそばヘヒョコヒョコかえっていったり、商売女だったりすると、また金をもって出かけたりする。そうして、入れ墨は二つ並んで入れたりするのとちがいますか」 「そら、わかりまへん。そこが男というもんです。すんだあとは、もうこんりんざい、ごめんと思うが、また暫くするときれいに忘れて一からはじめます。そやからこそ、商売女というもんが、いつまでもすたれへんとつづくのです」  ちなみにいうと、私は金でセックスを買う男というものが、どうしてもわからない。しかしこれは私だけのハンチクな考えかもしれない。何となれば近頃は女でも男を買っている。  私の知人の美しき婦人、団体旅行で香港へ出かけ、人数が半端のため、二人用の部屋に彼女一人寝ることに相成った。すると夜、ボーイが来て、 「奥さん一人いるか?」という。  彼女は女一人と侮《あなど》られては如何《いか》なる理不尽なことをしかけられるやもしれぬと狼狽《ろうばい》し、 「ノー、二人、二人!」と叫んだら、 「二人いるか、よろし、二人なら安くする」  といったそうで、これで以てみるに、かなり女が男を買っているのだ。その実績あればこそ、ボーイが独り寝の女のドアを叩いて注文を取って廻っているのだろう。彼女はよけいあわてて、「いらない、男は不用!」とどなったら、ボーイはにやっと笑って出ていったそうだ。  あるいはこの女、自分だけでこと足らしてるのかと思ったのではあるまいか、と彼女は腐っていたが、男を買う女があんがい多いと知って私もびっくりである。ことほどさように私は世間知らず、物知らずである。 「まあしかし、女が男を買うよりは、男が女を買う方が多いでしょうな、女はすぐ愛の恋のと、モヤモヤムードが出て、金で片付かん、そこへくると男はパッと金を出し、サッとやり、スカッとする、これで一巻の終りです。パッ、サッ、スカッです。まァ、ラジオ体操みたいなもんでんな」  しかしねえ、何が悲しくて金出してラジオ体操しなけりゃいけないのです。家へ帰ればタダのがあるのに。  それは、家で飲めば安いのに、わざわざ外で高い酒を飲みたがる、不可解な男の習性と似ている。ともかく男はすることなすこと矛盾だらけでありますよ。 「いや、それは、家やとあとが煩《うる》そうてかなわんからだ、ラジオ体操やと、あと床を蹴って飛び出してくりゃしまいです。しかるに家ではどうか。ベタベタムードがついてまわっていやらしィてかなわん」 「といいますと……」 「男は入れ墨を消したいくらいの気であるのに、却って女房はひっつき廻ってくる。女房やと枕を蹴っとばすわけにもいかん、やった金を取り戻すわけにもいかん、しかしもう顔見るのもいやな心持」 「そこがわからない、いやなら、はじめからするはずないでしょ」 「わからん奴やな、おせいさんも。はじめは、やな、男はカッカしてるから女やったら誰でもええねん、この際、女房でも致し方ないと思う。しかし、すんだあとはげんなりする、見るのも|しんどい《ヽヽヽヽ》」 「そうかなァ」 「しかるに女房のほうはイソイソして朝っぱらから鼻唄の連続、いつになく早起きしてメシの支度なんか念入りにしよって、起しにくる顔みたら化粧なんかしよって、こっちは、家まちごうたんか思うてびっくりする」 「結構じゃありませんか」 「男のそばへ寄りたがってさわりたがって、今日は何時ごろかえるの、ごちそうしとくわ、あらパパまたネクタイまがってる——、ベタベタするな、ちゅうねん」 「そこが女の情《じよう》の深いところよ」 「いつも、そう情が深ければよろしいよ。しかし少々御無沙汰するとどうですか、ブーとふくれた顔をこれ見よがしにつき出してのし歩き、つんけんと子供に当りちらし、芋の煮っころがしに目刺のオカズをあてがい、夜はふてくされて一人先に寝こみ、ことさららしきためいき、泣き寝入りというのがあるものなら、女房のは怒り寝入り、夢の中まで怒り声の寝言、いがみ合いの歯ぎしり、腹立ちまぎれの屁《へ》こく。それがいっぺんナニすると、打ってかわって朝はランランランの鼻唄で、化粧の、しなだれかかりの、今晩何時ごろかえるの、という鼻声です。これがぞっとせずにいられますか。てのひら返すというがあまりといえばあんまりですわ」  おっちゃんはひといきにいい、しばし瞑目《めいもく》、 「男は万人ひとしく、すんだあとは入れ墨を消したい気持、同じことなら、パッ、サッ、スカッとしたラジオ体操を好む所以《ゆえん》です」  夜ごとの復縁  男と女とは、どちらが未練たらしく執着つよく、情深いだろうか。人による、などといってたのでは話にならない。  大ざっぱな話でいこう。  新聞を見ていると(私は社会面しか見ない)「復縁を迫ってもとの妻を刺す」あるいは「刺そうとして、それを止めた義父を殺す」などというたぐいの犯罪記事がよくのっている。 「復縁を迫る」のはたいてい、男に多いようである。女がもと亭主に「復縁を迫り」切りつける、あやめる、どなりこむ、ヒステリーになって乱入する、というのは、ないではないが男より少ない。女は、縁が切れる前に修羅場を演じつくす。切れたあとで、つなごうとしてわるあがきしない。  中には十三年間、別れた夫に恨みを抱きつづけ、その子供に恨みを吹きこんで、子供がついにもと父親の再婚家庭に刃物をもって押しこみ一家を監禁、人質にとって暴れるというような極端なのもあったが、これは例外、それとても当のあいてに「復縁を迫る」という未練たらしいものはないのである。  なぜ男の方が「覆水を盆にかえし」たがるのであろうか。一代の碩学《せきがく》、カモカのおっちゃんにきいてみよう。 「それは、女は何ぼでもホカのモンで間に合うからええが、男はそうはいかんからです」とおっちゃんはいった。 「ホカのモンとは何ですか」 「似たようなモンです」 「その、|モン《ヽヽ》というのを、くわしくいって下さい」 「うるさい!」  おっちゃんはイライラし、 「女はつまり、伸縮自在なところがあるから、何でも間に合う。しかし男は、ピッタリくるのは少ないように思う。要するに、やたらそのへんのもんでええ、いうわけにいかん。いろいろ心当りをたずねても、も一つピッタリせん。すると、かつてのサイズピッタリのモンが、こよなくなつかしく慕わしく未練が出てくる。狂気の如く復縁を迫る、肘鉄をくらってもあきらめきれへん……哀訴嘆願してきかれへんなんだら、ついに刃傷沙汰となる。これはもうカルメンの昔からで、いかにもあるべきことですな」 「しかしいまどきの男の人やったら、手をのばせばどこでも代りはあるのんちがいますか」 「いや、男でもあんがい不自由なもの、マジメ人間や貧乏人、中年、老人というのは、じつに不自由なもんで、そうおいそれと、あてがいがあるわけではない。そこへくると女は気楽ですが、男は不便です。芸がないようやけど、やっぱりもと女房を思い出して、復縁を迫るようになる」  そうすると、ケンカばっかりしながら子供をつくってる夫婦があるが、あれも毎日「復縁を迫って」いるのかもしれない。毎日、夫婦の縁を切り、夜毎「復縁」しているのかもしれぬ。しかし翌朝、「離縁」するにしても、夜毎「復縁」するのは、私は、まあ、めでたいことであると思う。そんなことやってるうちに、一生すんでしまうから、退屈しなくてよろしかろう。  しかし「復縁を迫る」とき、どういって迫るのだろうか、刃物をふりかざして乱入するというのは、人をあやめ、新聞ダネになり、下々の下である。たぶん、夜毎、復縁している人は、かなりありふれたやりかたでやってるからこそ、新聞ダネにならないのであろう。私としては、その、ありふれたヤツを知りたいと思うものだ。カモカのおっちゃんのところはどうか。 「それはまァ、腰を揉んでくれ、とか何とかいいますな」 「ハハァ」 「腰というのは、裏とおもてがあります」 「なるほど」 「はじめはもちろん、裏を揉んでもらう」 「でしょうね」 「そのうちに何となく甲羅をひッくり返されて表むけにされてしまう。そうして、——何となく復縁する」  中年のいやらしさだが、まだしもおっちゃんから、もちかけるところがいい。  いったいに、男はえらそうにいばっている奴が多く、これが中々、復縁を切り出せない。それぐらいだから、縁が切れる前に、何とか手を打つということができない。  もう、どうしようも手の打ちようがなくなって縁が切れ、そのあげく、辛抱たまらなくなって、復縁を迫ることになる。なさけない。  日本の男には、手の打ちようを、もっと幾通りも教えなくちゃいけない。そうして復縁の迫り方もいろんな手くだを教えてあげなくては、刃物沙汰一すじというのでは、あまりにも単調で芸がなさすぎる。  ふだんの行ないが大事なのだ。  つまり、復縁しなくてもいいように、ふだんから仲よくする、これ、一ばん(当り前だ)。たとえ、朝、縁が切れても、ひとすじの糸はのこしておいて夜、復縁できるようにつなぐ。  そういう配慮が、日本の男にはちっともない。むろん女にだってないけれど、女がいくらその気になったって男がプーとしてれば、しようがないでしょ。  それで以て私は、夫婦、恋人というものは、いつも「復縁」できるような仲でいなければいけないと思う。あんまりいばりすぎたり怒りすぎたりしたら、あと、糸をつなぐときにてれくさい。デリケートな人には堪えられない。  いや、オレはてれくさくない、といばる人もあろう。「若旦那、昼は叱って夜おがみ」という川柳は、若旦那が下女を昼間叱っていばり、夜は手を合わせて復縁をたのんでいる図だが、これは男の通性だとはいうものの、私は日本の男に、こんな空疎な威厳やプライドをもってほしくないのである。——男というものは、女から見て、いつでも復縁をもちかけそうな、あたたかみを失ってほしくないのである。  また、女はというと、男に復縁をもちかけられたら、すぐほだされそうなやさしさをもっていなければいけない。 「つまり、双方、いつでも抱く、抱かれまっせ、というムードをもつことでっか」  とおっちゃんはいう。何ていやらしい。そういうこととちがう……いや、そうかな、やっぱり。  〈了〉 初出誌 週刊文春/昭和四十六年十月二十五日号〜昭和四十七年十月二十三日号 〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年八月二十五日刊 (C) Seiko Tanabe 2001 〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。